ありがとうプロジェクト
ありがとうの手紙作品紹介

小中学生 20歳以下 20代 30代 40代 50代 60代 70歳以上
70歳以上の方からの手紙
ペンネーム:しだれ紅梅さん(71歳/佐賀県鳥栖市)からの手紙
マルチーズの愛犬、昨年12月に17年1ヵ月の長寿を全うしたレオへの有難うの手紙です。
 レオちゃん、長い間私たち家族をいっぱ癒やしてくれて本当に有難う。無事天国に着きましたか。天国は楽しいですか。

 早速ですがレオに知らせたいことが有ります。そこに我が家の君の先輩が居る事です。ポメラニアンのメリー、大柄の雑種ナナ、ヨークシャテリアのミッキーです。きっと我が家の近況を聞きたがっていると思いますので探してみて下さい。

 手紙を書きながらもレオとの事が思い出されます。私がレオと本当に心が通う様になったのは会社退職後家に居る様になってからです。その頃君は9歳でしたが、それから5年、私が68歳、君は14歳人間なら70数歳で、いつの間にか私の年を追い越し、耳も遠くなり、目も白内障が現われて来ました。

 やがて私たちは息子一家と同居する二世帯住宅を新築し転居しましたが君が部屋にマーキングして廻るのには本当に困りました。でも新居にはすぐ馴れてくれて一安心でした。それも束の間、半年後にひどい心臓病になり、年齢的にも本当にダメだと思いました。奇跡的に回復しましたが薬は手離せず、後2ー3年の命です。次の年の夏、そして昨年の夏と君が呼ぶので一緒に居間にゴザを敷いて寝たり、ソファの上で夜寝ていましたネ。

 しかし昨年12月になるとついにしかも急に君の晩年が近づきました。ヘルニアで便が出にくくなり私が尻を押したり、時には浣腸もしましたが嫌がりもせず全てを私にまかせてくれましたネ。私はレオの晩年が自分の晩年に見えて一心に老々介護に努めました。

 孤独の老婦人が愛犬を亡くした時、すぐ立直れず自分がどんなに犬を愛していたか、又過した日々がどんなに楽しかったかの思いでなかなか死を受け入れないと言う。でも一緒に生きてくれて有難うと思えた時、初めて愛した犬の死を受け入れられると言う。だから私はレオに有難うの手紙を書く事にしました。もう犬は飼えません。

 (後書き)レオが亡くなって初めての正月、レオ宛に初めて年賀状がきました。死の2ヵ月前に行った近くの美容院からでした。
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上野 幸男さん(73歳/福岡県大牟田市)からの手紙
私の妻
統合失調症のママさんへ

 「パパさん、お隣から電気が走ってくる。どうにかしてください」と、貴女が言ったのはもう10年も前のことでした。僕は、「そんなことあり得ないよ、それはママさんの思い過ごしよ」と、言って相手にしませんでした。僕は、貴女の訴えは単なる更年期障害とばかり思い、仕事にかまけて対応が遅れてしまったので、貴女は段々と病状が酷くなり、とうとう入院することになりました。

 貴女から、幻聴による独語、被害妄想による思わぬ出来事などを、僕に訴えてきても、僕は何の手当ても出来ませんでした。

 あの様に元気で、明るく活発だったママさん、育児を、家事を切り回していた貴女が何故その様な病気になってしまったのか。発病当時、僕は、貴女の病状を信じることが出来ませんでした。が、今は冷静に、そして真剣に貴女の病気を受け入れております。

 思い起こせば、僕が24歳、貴女が23歳の昭和32年2月22日に結婚して以来、もう金婚式を迎える年月となりました。僕は、54年間続けてきたサラリーマン生活を無事終えることができました。これも貴女が元気な時に40年以上も僕を、家族を支えてくれたお蔭だと、僕は思っています。又、平成2年に僕が食道癌の手術をしたときは、2ヵ月以上も昼夜付き切りで看病してくれた貴女。

 もし、貴女が元気であれば、これから先はゆっくりした・楽しい老後を送れる筈でした。が、それも叶いません。しかし、僕は絶対に悔やみません。入院中の大腿骨骨折による歩行困難な貴女を、今度は僕が出来る限り介護してあげますから、安心してください。

 これから先、二人の老後は、後何年あることでしょうか。お互いに天寿を全うできるまで、細やかな、そして僅かな幸せを見つけて、生きていきたいと思います。

 僕は、これまで僕を支えてくれたママさんに、心から「有難う御座いました」と言いたいのです。でも、貴女にはそれが理解できるでしょうか。

 最愛なるママさんへ
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上野 幸男さん(73歳/福岡県大牟田市)からの手紙
初恋の貴女へ

 初恋の人。貴女。そう、その貴女とお会いできたのは。

 僕は、昭和20年8月の終戦の日の1週間前に戦災に遇い、貴女の住んでいた大分県国東町の母の実家に帰りました。そこで出会った人が貴女でした。その貴女は、僕より2つ年下で、僕の隣の敷地で製材業を営む良家のお嬢様として、裕福な生活をしていました。その貴女と何時しか幼友達になりました。

 貴女は日本舞踊を習っていて、その発表会で踊っていた野崎参りの姿。ライトの中の貴女は日本人形を見ている様に、可愛いくて綺麗でした。また、毎年旧盆に行われる盆踊り大会でも踊っていた貴女。国東町の浜辺で行われる総踊りでは、櫓の上の口説きの音頭に合わせ、大きな踊りの輪の中の振袖姿の貴女。淡い月の光に照らされて、浮かび上がるその姿は幻想的で、今でも鮮明に思い浮かべることが出来ます。

 貴女とは、僕が就職した後も文通やデートを重ねていましたが、何時しかお互いに(愛)を意識するようになりました。やがて、僕にも結婚適齢期がきて、嫁の話がでるようになったとき、僕は貴女とのことを真剣に考えました。が、家柄が極端に違う貴女とは、どの様に考え・どうあがいても(結婚できない)と決断し、貴女に電話しました。

 貴女は、「どうして、幸ちゃん、どうして私を貰ってくれないの」と泣き出しました。僕は、「貴女のお母さんが絶対許してくれないと思う」と言ったところ、貴女は、「それなら、私、家出する」と言ってくれました。僕はどのように言い訳してよいか分からず、ただ「ご免ね」とだけ言いました。

 それから、もう40年近く過ぎてしまいました。貴女は、僕にとっては正に初恋の人です。僕のこれまで73年の長い人生において、忘れることのできない初めての青春を僕に贈ってくれた貴女。貴女との出来事の一つ一つは、今でも僕の胸に深く刻まれていて、その一齣一齣を思い返す度に、何時も、この年老いた僕の胸が高鳴ります。

 僕のこれまでの人生を一際輝かせてくれた貴女へ、心から「有難うございました」。

 その貴女。お元気でしょうか。今、何処で、どの様に生きていますか。
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龍 達男さん(74歳/福岡市南区)からの手紙
亡き兄へ…ありがとう…、兄(あん)しゃん
 ありがとう、兄(あん)しゃん

 兄(あん)しゃん! 先日は、あなたの十七回忌でした。遺児の長男が、しっかりと法事を取り仕切っていましたよ。彼は立派に成長しています。安心してください。

 法事の後、久しぶりに故郷の堀のほとりを歩きました。懐かしかったです。覚えていますか、あのエビ事件のことを…私が小学3年、あなたが6年の夏休みの後半のころです。いつものとおり私たちは、宿題もせずに釣りに行きました。と言っても、私は魚籠(びく)のお守りでしたが。あの日は珍しく抜群の釣果で、魚籠には手長エビがいっぱいでした。帰りしな私は両親の笑顔が頭に浮かび、喜びのあまり万歳をした拍子にひもが切れて、魚籠が堀に落ちたのです。そのため大半のエビは逃げてしまいましたが、あなたは少し嫌な顔をしただけです。でも、家に帰ってからが大変でした。事情を知った母が私を叱りつけ、夜になっても家に入れてくれません。泣きながら軒下にうずくまっていると、あなたがハシゴを持ってきて二階に連れて行ってくれましたね。あのとき、こっそり食べさせてくれたにぎり飯の味は、今でも忘れられません。

 私が小学6年のとき、父が出征しました。それで高等小学校を終えたあなたは家計を支えるため、大牟田市にあった軍需産業の危険な工員として働きました。そしてそんな貧しい家庭環境なのに、私に中学校への進学を勧めてくれましたね。うれしかったです。そのおかげで私は、幸せなサラリーマンとして過ごすことができたと思っています。それなのに今まで、あなたに「ありがとう」の一言も言った覚えがありません。心の中では感謝していても、若気の至りで口にすることができなかったのです。きっとあなたは、傲岸不遜な弟だ、と思っていたでしょう。私もこのごろ、そのことだけが悔やまれてなりません。今わが家の庭には、あなたが植えてくれた梅や金木犀(きんもくせい)が大きく育ち、四季折々に芳香を放ち鮮やかな花を咲かせます。ときおり庭に降り、あなたの面影を重ね合わせながら、樹幹をなでています。ありがとうございました。
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川崎 慶勝さん(75歳/福岡市東区)からの手紙
今は亡き素晴らしかった桑原正臣校長先生へ
謹啓

 この世では暖冬異変であちこちで珍しい現象が見られている今日この頃で御座います。校長先生とお別れして三十数年、天国(極楽浄土)では如何でしょうか。また仏様のお膝元での日々のお暮らしは、さぞかし楽しい毎日ではとご推察申し上げます。家庭の事情から大学に行けず高校卒業と同時に中学の教師として、初めて教壇に立った私を親身になって厳しさの中にも優しくご指導して下さった、あの日あの時の事が昨日のように私の脳裏をよぎって懐かしく思い出されます。忘れもしません昭和26年の4月の事で御座いました。私もあれから41年間色々な事がありましたが、校長先生の教えに従って頑張って参りました。

 忘れもしません赴任して間もない頃「君ひとの子の師であれば」という一冊の本を渡してくれましたね、何回となく読んで教師とは何かを私なりに理解しました。またある時には、次のような事を聞かされ心から感動致しました。

 (1)そこに人が居るから子供が居る、子供が居るから学校がある、学校があるから教師が必要となる、君はその必要とされる教師となったんだ、本当に必要とされる教師を目指して子供のために、どうしなくてはならないかを、しっかり勉強して欲しい。

 (2)子供から信頼されたかったら先ず君が子供を信じる事だ。子供からの信頼なくしてはどんなに立派な事を言って聞かせても、またして見せても子供は決して付いて来るものではない。川崎君「建前と本音」があるが指導に建前は通じないものだ。何事にも本音(本気)で指導に当る事を忘れてはならない。

 (3)また同じ労働者と言っても労働者が違う、教師という職業は「聖職」だと思って未来を背負って立つ子供のために「死力」を尽くすべきだ。

 (4)時間を割いて子供との触れ合いを作る事も忘れないように、忙しくて時間がない(確かに先生方は忙しい)と言っていては子供との触れ合いは出来ない。向こうから時間はやっては来ない、自分で生み出すほかはない、君がこのような態度で子供に接するならば、きっと子供は君に付いて来るはずだ。

 (5)またある日の昼下がり校長室に呼ばれて、君は保健体育の免許を取ろうとしているようだが、体育の先生は若い時は良いが年を取ると思うようには行かない、だから理科か数学の免許を取るようにしてはどうかねと。

 (6)5月も終わりに近付いたある日、不意に校長先生が君の給料は誰から貰っていると思うかと尋ねられましたね、私はとっさの事で一瞬躊躇して国からでしょうと答えたら、誰だってそう思っている。だから本当の教師として子供の指導が出来ないのだ、君の給料は子供から貰っていると思わないかね。

 (7)それから校長や教育委員会を怖がっていては何も出来ない。君の相手は校長でも教育委員会でもない。君の相手は子供だ、子供のためなら校長や教育委員会と喧嘩する位の気概を持って当ったらどうかね。君の相手はあくまでも子供たちだ、だから子供のために信念と自信を持って頑張って欲しいと。校長先生、私は、あれ以来「君ひとの子の師であれば」を教育の理念としてまた、校長先生からの色々な、お言葉やご指導を教師生活の糧として子供と共に41年間歩いて来ました。その41年の間には、鶏事件で警察署長と私の首を掛けて談判したことを始めとして色々な事件や問題に遭遇して来ましたが、校長先生のお言葉やご指導を思い出して頑張って来ました。

 校長先生、私の41年間の教師生活の大きな大きな支えとなり今の私があります。そして今では一つの絆として退職しても「教師は教師、教え子は教え子」として、教え子たちからの信頼もあり、教え子たちとの交流で楽しい毎日を過ごさせて戴いております。あれもこれもみな、まさに校長先生の温かく厳しいお言葉やご指導のお陰と心から感謝し「ありがとうございました」と、厚くお礼を申し上げます。校長先生、本当にありがとうございました。

 ご冥福をお祈り申上げます。安らかにお眠り下さい。さようなら

 桑原正臣校長先生へ

 H,19,2,27

 川崎 慶勝
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山口 多鶴子さん(75歳/長崎県佐世保市)からの手紙
夫に
 白い封筒 夫に。

 羅針盤のない広い大海原に漕ぎ出して9年。ガン手術すること2回。膝の大手術と4回も手術して来た私。

 元気のお手本。私の体は一瞬にして音を立ててくずれていく。

 手術毎に家族一同心配かけ、それ以上に心痛めてきた夫。家族全員で先生に手術説明を受け大変な手術だと。夜6時をすぎた。

 「頑張れよ。明日又来るからな」。

 消灯寸前ふたたび現われた夫の手には白い封筒が握りしめられている。便箋3枚にびっしりかき込まれた激励文。

 「医学はどんどん進みガンは治る。先生を信じ心静かに手術を受けてくれ。俺がついている」と締めてある。それでなくても涙腺はゆるみ気力体力も失いかけている私。枕元の薄暗い蛍光灯の下でポタポタと落ちる熱い目の雫。

 「ありがとう、アナタ、頑張ってくる」。

 するどいカーテン一枚隣りの若い彼女。素早く気付いた私のススリ泣きの声に、「具合が悪い、看護師呼ぼうか」。「いや何でもないよ」。「御主人みえたでしょう」。手術待ち6人全員がカーテン全開それぞれに自分の夫の批判がほとばし出る。そして口々に、「やさしい御主人ね。山口さん幸せね」。私の秘密の宝箱には今も残る、「白い封筒」。私の長年の病のため金婚式の祝の膳も小旅行も出来ぬまま今年の4月は50年と3つの年月を迎える。喧嘩したこともあった。お互意見の相違で子供の進学その他もろもろ大小の言い争い。その度毎に新聞チラシ白い裏紙に私の言いたかったことペラペラ書き綴り、「読んで」と渡したね。1時間もしないうち返事が返り、「読んだか」。「はい」。「御免なさい」。「分かればそれで良か」。

 造船企業にたずさわり家族を大切に愛し守りそして多趣味の九州男児の夫。

 私の病前10年間は二人で遊漁船夫の持つ二号鶴丸で楽しんだ船釣り、船酔いも酔いどめ薬飲んで出漁し素人だったあの私が、プロにも負けぬ力量を発揮したあの頃楽しかった。思い出深い趣味を教えてくれ今でも夢の中で生け簀に泳ぐ魚が見えます。

 一度も二度も死んだ私をここまでしてくれた。アナタ。今懸命に治療に励む姿を見守ってくれてますね。「も少し時間を下さい」。

 でも二人共々年を取り過ぎました。

 もう時間がたりない。ここまで永い病とつきあい医学の進歩を夫、家族の愛、友人の励ましに昔なら死んだはずの私。生かされている喜びに感謝しています。

 「アナタ、ありがとう」
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近藤 庸子さん(75歳/長崎市)からの手紙
お姑(かあ)さんへ
なつかしいお姑(かあ)さんへ

 前略、お姑さん!! そちらの春景色はいかがですか? こちらは気象の変化が激しく花たちもとまどいながら咲き乱れています。お別れして14年の歳月が流れましたが共に過ごした日々が昨日のことのように思い出されます。10人の子供の母親だったあなたは、明治、大正、昭和、平成を実にたくましく生き抜かれました。努力家で骨身を惜しまない人でしたね。20歳の私に鰤や鶏のさばき方、おやつの作り方、思わぬ出費で家計が苦しい時の総菜の工夫など数えきれない教示をしてくださいました。今も料理が好きなのはお姑さんのおかげです。でも、白状しますけど、若かった私は余りの厳しさに人知れず涙したこともありました。ごめんなさい、改めてあやまります。しかし楽しいこともありましたね。"庭の千草"や"野ばら"など二人で二重唱もいたしました。思えば私もお姑さんのパワーに負けてメソメソしてるひまはなかったようです。85歳で不覚にも畳の上で転倒し大腿骨骨折で入院手術を余儀なくされましたがリハビリ室では模範生でした。自宅でも手すりと杖にすがり積極的に歩行訓練を頑張りましたね。凜として気丈だった、あなたが身も心も私に委ね90歳の旅立ち、ひと月前『長い間有難うね。』と言ってくださった時ベッドのお姑さんを抱きしめて泣いた日を忘れません。両親と主人の看取りという貴重な体験をさせて頂いた私こそ、心の底から感謝とありがとうの言葉を言わせてください。今、私は5人の孫、5人のひ孫の成長を見ながら暮して行けるのもお姑さんのおかげです。お姑さんもきっとこの歌は好きですよ。『千の風になって』を歌いながらこの手紙を書いています。もう少し私たちを見守っていてくださいね。ではお会いできる日を楽しみに。さようなら 

 追伸、83歳の時書かれた「送別の詩」(吟道教典より)少し大きくコピーし額に入れて弟妹たちに配り、それぞれ家宝にしています
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小嶋 勇介さん(76歳/福岡市東区)からの手紙
 「ユウチャンゲンキデスカ。アシをダイジニシテ子。ゲンキデ子…」

 電報のようなこの手紙、ぼくが大学入学で甘木の家を出て博多に下宿した時、あなたがくれたものですね。あなたは離島育ちで小学校は3年までしか行けなかった。そのあなたが、脚の不自由なぼくが家を離れて自炊生活を始めたというので、心配のあまり恐らく生まれて初めて鉛筆を握って書いたものでしょう。文中の「子」が「ネ」だと判読するのに時間がかかった。でも、この手紙はぼくの宝もの、今も大事にしているよ。

 昭和46年に83歳で亡くなったあなたの一生は、ほとんど大戦の中で過ぎた。8人の子持ちで、父と上の兄たちは戦地。姉たちも軍に徴用で取られ、あなたは小さい3人の子を抱えて、家事と防火訓練に明け暮れました。

 末っ子のぼくは小児まひで右足が不自由、一番手のかかる子だったけど、あなたは「四十の恥かきっ子」と笑いながらも、ぼくを一番可愛がってくれましたね。

 あなたは毎日夕暮れ時に、ぼくを背負って数キロ離れたお地蔵さまにお参りに行った。父や兄たちの無事を祈って…。あの時の、あなたの背中の温かさと匂いをぼくは忘れない。

 あのころ住んでいた広島は軍都。来る日も来る日も、わが家の前の道路は宇品港に向かう兵士の行列で、照りつける真夏の太陽に完全武装のままぶっ倒れる兵隊さんたち。そんな兵隊さんのために、「愛国婦人会」のタスキを掛けたあなたは、汗びっしょりになりながら家からバケツで水を運んだ。その時のあなたのきびしい表情は怖いほどでした。あの時、あなたの目には、遠い大陸で同じような苦労をしている父や兄たちの姿が重なっていたのでしょう。「軍国の母」「靖国の母」は悲しい母でした。

 そして敗戦。兄2人は帰らなかった。父も失業。戦後のあなたは、家族を養うため近所の家の軒下を借りて野菜などを商った。そんな中で、ぼくを大学までやってくれました。

 臨終の床で、ほとんど意識がないあなたが、手さぐりでぼくの不自由な脚をさすってくれた。

 仕事で各地を転々として、老後のあなたに何もしてあげれなかった痛恨の思いが古希を過ぎた今もぼくの心をさいなむ。

 ぼくのおかあさん、ごめんね! ぼくのおかあさん、ありがとう!
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衛藤 巌(えとう いわお)さん(77歳/大分県玖珠町)からの手紙
古里 内匠(たくみ)
 ありがとう古里 内匠(ふるさと たくみ)

 天下の奇勝耶馬溪の南の入り口から左折して500メートル程登った標高460メートル、16戸の農家が点在する「内匠」という集落に生れた私は、喜寿を迎えた今日まで、父祖伝来の棚田を守り稲を植え継いで来た。

 筑後川の源流と自認する内匠川の水は、築何百年か記録のない上下二段の人工池を源として、北から南へ流れ、24町歩の田を潤し蛍を育てる。集落を囲む野山は、春の若葉、ぜんまい、わらびを提供し、夏の夕立ちと上り際の鮮やかな虹、秋の紅葉と冬の雪景色は一人で見るには惜しい情景である。

 子供の頃に好んで登った城山。広大な朝日長者の分家跡、三ヵ月の池など遺跡にも事欠かない。何百年も変わることなく家を受け継ぎ、農業で生計を立てて来た集落は、他所から新規に入って来た人もなく、老人を敬い、子供を可愛いがって、四季折々の小祭りも樽番によって営々と受け継がれている。一人息子が高3になった農閑期に季節工として6ヵ月だけ大阪で働いていた外は古里を離れたことはなく、「古里は遠くにありて思うもの」からみると、あまり大口もたたけないかも知れないが…。

 先日、大阪で88歳で亡くなった姉の遺骨を、生前からの約束で「内匠」の納骨堂に納めた。姉も子供の頃に遊んだ想い出多い古里に還り、両親と同じ納骨堂に納まったことをきっと喜んでいるに違いない。夢で見た姉はとても米寿とは思えぬ若々しい笑顔でしきりに手を振っていた。

 文明の発達と正反対にどんどん薄れゆく義理人情に心を痛め、利発には程遠い田舎者が、生れた古里「内匠」に限りない愛着を持ち、豊かな人情を受け継ぎ、朝霧に見え隠れする城山を、緑に匂う風、清流を子や孫に残してやりたいとひたすらに思う。

 喜びも、悲しみも、何も言わずに抱きとってくれる。ありがとう。古里。私の「内匠」。
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吉村 茂實さん(78歳/福岡市南区)からの手紙
妻・吉村スミ子
 金婚式に寄せて

 あなたの誕生日に、私が贈ったラブレターをひもときながら、あのころは若かったなぁと思い返し、苦労ばかりかけてきた日々の重さに頭が下がるばかりです。

 昭和3年の乙女座に生まれた者同士の因縁話に花が咲いて、戦争中に片親を失ったお互いの悲しい体験も、博多弁という方言のお陰で明るく響き合いました。日常の会話は、すぐ博多にわか調になってしまいます。

 でも、笑ってばかりもおられませんでした。銀婚式を迎えるまでの25年の歳月というものは、子育てをしながら共働きの毎日でした。あなたが寝込んだのは、カゼで3日間くらい。一方、私はといえば盲腸炎は軽いとしても、急性気管支炎や胸膜炎と、まるで病気の見本市でした。

 思い返せば、4年10月という気が遠くなるような、埋もれた青春の療養生活から立ち直ったばかりの私が、共に生きていく喜びと自信を持つことができたのは、何といってもあなたとの出会いでした。「ありがとう」の一言では言い尽せない思いを筆に託して、短歌や随筆を新聞に投稿してみては、感謝の気持ちを積み重ねて来たつもりです。

 「共かせぎのバランスシート」「夫婦再発見の旅」「愛の城づくり」などなど、過ぎ去った足跡を振り返ってみては、尽くし足りなかった伴侶への思いを振り返りながら、微笑ましいひとときもありました。

 母と子のきずなを固く締めるがに

 振り袖の着付けなお続きおり

 いつの間にか、お互いに齢を重ねて80歳。二人の確かな足跡を辿りながら、これからの一日一日を大切に、おもろい夫婦のホームドラマに、楽しいオチをつけましょう。

 半世紀(反省記)思えば遠くへ来たものよ キンコンカンコン(金婚冠)と足どり弾む
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野尻 昭夫さん(78歳/熊本市)からの手紙
孫のT君へ
 まだ君が3歳ごろの話です。いつものように連れ立ってスーパー(マーケット)に出かけましたネ。お目当てはオモチャ売り場でした。階段を3階まで一気に駆け上がり、売り場に近づいたその時でした。オモチャ売り場の一角に積まれた撮影用のフィルムが何かのはずみで崩れ落ちてきた。

 思わず立ち止まった私たちは、行き掛かり上仕方なく、床(ゆか)に散らばったフィルムを一つ一つ拾い集めた。拾いながら君が、何やらつぶやいている。耳を傾けると“じいちゃん、じゃないヨ、じいちゃん、じゃないヨ”と周(まわ)りの人たちに訴えかけるように、しきりにつぶやいていました。

 おそらくそれは、いつも付き合ってくれる遊び相手のじいちゃんの一大事とばかりに、私をかばってのつぶやきだったと思います。

 ほどなく片付け終えたあと、一緒におもちゃ売り場へ急ぎました。そして、君の欲しいおもちゃに、すぐにOKのサインを出しました。さきほどの君の“つぶやき”に報(むく)いる“ご褒美”のつもりで―。

 どうか、相手を思いやる気持ちを忘れず、すくすく育って欲しい。“三つ児の魂、百まで”の諺どおりに成長してくれるよう願っています。

 月日の経つのは早いもので、もう、成人の日を迎え、大人の仲間入りを果たしました。これからも、めざす目標に向かって、たゆみなく一歩一歩たくましく生きてください。

 ともあれ、定年後の私の、かけがえのない生きがいとして支えてくれた君に、心から感謝します。ほんとうに有り難う。

 最後に、君の幼いころを詠んだ拙い一句を添え、失礼いたします。

 おもちゃ散る中に小さき昼寝かな 
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真次 肇さん(78歳/福岡県筑紫野市)からの手紙
恩師・・・日高 守先生へ
 先生、覚えていらっしゃいますか?

 67年前、小6の時、若菜小学校の宿直室に起居されていましたね。

 甘えん坊の僕をとても可愛がって頂きましたね。年間の半分ぐらいは学校で寝食を共にしました。

 放課後は毎日、書道を教わり、学校の見回りに時々、連れて行って貰いました。子供だったので、全く、気にも留めませんでしたが、食費その他の経費は、どうなっていたのでしょうか。今、思うと汗顔の至りです。

 小6の一年間は先生に甘えて、すべての事が、感謝感謝の夢のような毎日でした。

 其の中でも一つ、僕にとって忘れられない事件が(?)ありました。

 ある朝、夢見のせいか(オネショ)をしたのです。さすがの僕も驚きました。どう、しよう! 色んな思いが交錯して泣きたいぐらいでした。ついに決心しました。

 先生に起された時、身体(からだ)具合が悪い振りをして、グズリました。この侭(まま)、寝て居て、自分の体温で何とか乾かし、ばれないようにしようと決めたのです。

 それはそれは子供の浅知恵です。でも、必死でした。

 先生は心配されて、その侭(まま)、布団に寝かせ、授業に向われました。午前・午後と僕は授業を休ませて貰いましたね。

 本当に御心配をかけました。僕が社会人になり、妻子を持つ歳になって、つらづら思います。

 あの時、先生は僕の(オモラシ)を、きっと、見破っておられたと思います。そして、知らぬ振りして、僕に恥をかかせないよう、見過ごされたと思います。きっと、そうです。

 ありがとうございました。今でも、思っただけで胸が熱くなります。

 日高守先生、いつまでも、お達者で。

 ありがとうございました。
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福原 義昭さん(79歳/長崎県島原市)からの手紙
妻 福原美津子(ふくはらみつこ)
 昭和21年、終戦により私は台湾、貴女は北朝鮮から引き揚げ、奇しくも二人は三井鉱山?で出会い夫婦となりましたね。そして優しく思いやりのある娘と息子に恵まれ、爾来53年も束の間でお互い傘寿までよくぞ生き延び、全く神様に感謝の外ありません。思えばこの間にはまさに人生山あり谷ありで時には傷つけあった事もありましたが、やはり夫婦はかけがえのない伴侶である事に気付かされました。そして近頃では長年の思出と共に暮らして来た苦楽の歳月がずっしりと燻銀の如く幸せをつくづく感じるのです。これも一重に至らぬ私の我儘を許し失敗を励まし常に優しく理智的に支えてくれた貴女のお蔭だと心から感謝しております。本当に有難う。今ではいつも心の中に感謝の気持ちがあっても仲々口に出して「有難う。」の一言が直に言えず誠にすまなかったと反省しています。「ご免なさい。」戦前戦時中教育を受けた九州男児肥後もっこすのなせる業、優しい言葉を女性にかける事は男の沽券にかかわるものと勘違い最近やっと自然に有難うの言葉が出る様になり大変嬉しく思います。2年前同時に喜寿金婚式を迎え子供や孫たちに贈り物された皇居前パレスホテルでの祝宴の感動と喜びは最高の我々への勲章でしたね。あの輝やしき佳き日は長年共に山歩きで鍛えた健康の賜物で一生忘れないでしょう。これから先もどうか今共に生きる歓びを共有し今迄どおり永遠の恋人妻として愛し愛される人となり心身共に健康でつきあって下さい。そしてこれからの毎日を心充ち足りた感謝の日々として支えあい子や孫たちの成長を静かに見守ってあげようではありませんか。いつも貴女が育って誇にして来た今は無き三井鉱山ですが故郷の懐しい時代の思い出を最近よく聞きますが、子や孫に伝え時にはその地を訪れ感謝の気持ちを表したいものですね。私もまだまだ現役、長い間本当に有難う。

 平成19年1月吉日

 傘寿を前に 感謝をこめて 義昭拝

 100歳をめざす愛する妻 美津子様へ
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緒方 功さん(82歳/佐賀県基山町)からの手紙
緒方慰子へ
亡き妻へ

 慰(やす)子 お前が向こうへ逝ったのが、ついこの頃みたいに思えるのに、時の流れ、月日のたつのは人にとって冷たいもので、もう6ヵ月が過ぎたところだ。

 最近は訪れる人もほとんどなくなった。息子の孝吉も福岡市だから、百ヵ日までは毎週来ていたのだが、仕事で近くへ来たときを除けば月に一度くらい来ては、「変わりはないね? 風邪ひいたらいかんよ」などと子供相手みたいに言って帰る。

 おれはこのごろ、「人」というものは、どんな境遇にも慣らされるものだということを思い知ったよ。

 おまえが居なくなって、一番困ったのは食べるもので、三度三度なにを食べるか迷ってしまう。そこでおれは考えた。

 近くのスーパーへ行けば、惣菜がずらりと並べてあるが、あれは、「味付けの濃くないのなら、買ってもいいけど。あんまりね…」と、おまえが言っていたからと思って、おれがやってみることにしたよ。しかし、このおれに出来るのは、おまえに教わったサツマイモを蒸すのと、キュウリの塩揉みではないか。それじゃあと、居間の地袋から取り出した、NHK版の「きょうの料理」と首っ引きでやってみたよ。

 「…さばは皮目を上にして、大根、しょうがとともになべに並べて入れ、酒をヒタヒタに注ぐ…か」「アレッこりゃ、おかしいぞ」なんて言いながらさ。

 おまえが救急車で運ばれて、病院を転々とし末期病棟に居た頃、2ヵ月あまりおれは欠かさず通った。そして、たまたまとぎれていた意識が戻ったとき、「アリガトウ…」と、おまえは言ってくれたよな。

 今年は結婚して50年だったのに。おれの様な男と永いあいだ、ほんとにありがとう。
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副田 虎王一さん(85歳/福岡市城南区)からの手紙
隅田哲夫君と散華(さんげ)された皆さんへ

 隅田君! 天国ちゅうところは、よっぽど居心地の良か所ばいなぁ。それとも素敵な彼女見つけて、楽しい日々を送っているのかな…? 私には、ちっとも、夢にも見せん。

 ばってん、21歳の旅立ちは、あまりにも早過ぎたもんなぁ…。何十年振りかいな。こうして君に便りするのは…。

 思えば昭和19年2月。小雪の舞う中。伊号百八十四潜水艦は、アリューシャンへ向け佐世保軍港を出撃。だが、1時間も過ぎた頃、私は艦長から呼ばれ「副田、よーく聞け。ただ今、軍司令部より潜水学校高等科へ入校せよ…との、至急電報が来た。直ちに下艦(げかん)の準備にかかれ!」と。私は何回も「このまま戦地へ連れて行って下さい」と必死に頼んだが…艦長は「君が高等科へ進学すれば、今のお前の五倍も六倍も国家のお役に立つ!! この道理が分からんか!」と一喝され、艦は佐世保へ急行。私の交代員を乗せて、再び君たちは「今度会うときゃ靖国神社たい!」と手を振り、勇んで出撃して行ったもなぁ。身を切られるごと、辛(つら)い別(わか)れじゃったが、これが最期になろうとは…。

 ところで今日は、とびっ切り嬉しい便りばい。君の姉さんを広島の竹原市に尋ねて行ったたい。「あれっ!何じゃそらぁ!!」。戦闘訓練中、良くジョークを飛ばしていた君の、ひょうきんな顔と仕草が浮んで来るやなぁ…。

  事の起りは、姉さんの手紙たい。『伊号潜水艦の記念誌が配達され、拝見しておりますと手記に「運命を変えた電報」とあり、文中に、百八十四潜の文字が…若しや弟を、ご存知の方ではないかと、藁(わら)をもつかむ気持でお便りしますと、何と!仲良しだったとか』。そこで文通が始まり、私が君の墓参りに参上したわけ。

 墓前で手を合わせ、君の思い出話をしていると、姉さんは、ご主人も海軍で戦死され、ご苦労の連続じゃったとか。

 一方、私は艦で一人生き残ったからには「散華(さんげ)された96名の分まで、社会奉仕するのが私の務め」と頑固一徹!! 早朝4時から町内の清掃始めて36年になる。毎朝、輝く星の皆さんに手を振り、あの折、別(わか)れた君らの凛々(りり)しい顔を思い浮かべ、一人一人名を呼んで「頑張りよるばーい」と、一人芝居して自己満足しとるたい。

 ところがな。内緒でしとるつもりが遂に発見され、昨年の春の褒章(ほうしょう)で「長年の貢献に光」と報道され、緑綬褒章(りょくじゅ)と云う、ど偉い褒章を頂き、皇居に参上して天皇陛下に拝謁(はいえつ)。ねぎらいのお言葉まで頂き、胸のすくような快挙やった。これも皆さん方の、ご加護の賜で、嬉しゅうして、今すぐにでも紅白のまんじゅう届けたい心境じゃが、住所が分からんたい。

 私はお陰様で、清掃奉仕で体を鍛えとるから頑健そのもの。生ある限り清掃を続け、毎朝、星空の君たちとの間に、温かーい心の交流が出来れば、もう、これ以上の望みはなか!

 隅田哲夫君、そして散華された皆さん。私が天国へ来るのは、もう少し先じゃが、世界の有数の平和な国家、こんな住みよい国家にしてくれたのも、みんな、みんな…君たちの国に殉じた御霊(みたま)のお陰たい。ありがとう! ありがとう!! 感謝の気持でいっぱいでーす。
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立花 直さん(86歳/福岡県太宰府市)からの手紙
今井 正治
「今井 正治に贈る」

 永年友好を温めたのに今井正治は多年の酒害でクモ膜下出血を起し、九死に一生を得て東京の特別養護老人ホームに横たわっている。初めて見舞った時の事が忘れ難い。「アンタは誰?」と呟きまじまじと見詰めるではないか。

 私は唖然(あぜん)として返す言葉を見失っていた。やがて快方に向ったが対話は支離滅裂である。夫人が見かねて、無駄だからもう来ないで呉れと言う。男の付き合いはムダの積み重ねで成り立っているのだが女の心情は別だ。迷惑の態(てい)だったから爾来一両年足を向けてない。

 年寄りは思い出に生きる。今井も病床で昔を追想している事だろう。終戦の秋、私は北鮮から這々(ほうほう)の態(てい)で引き揚げ京都にあった今井邸に転(ころ)がり込んだ。親父さんは手広く事業を営み頼むに足りたが、私がこの家を出て独立する時、餞(はなむ)けだと言ってはめていたロンジンの腕時計を外し私の左手首に巻いてくれた。

 世帯を持ってからの往き来も多かったが、今井は横暴な亭主関白でもあった。私が上京して泊めてもらった時も、夕食の膳で突然「オイ出掛けよう」と箸を投げた。近くの居酒屋に座って「急にどうしたんだ」と聴くと、「気が付かなかったかも知れんが」と言ってウチの奴がお前を粗末にした、赦(ゆる)せんのだと一言呟(つぶや)いた。私は彼の異様な拘泥(こだわ)りを驚くと共に不思議な感慨に耽(ふけ)ったのである。

 今井が九州に遊びに来た時、宮崎から鹿児島を案内した事がある。指宿のホテルで盃を交わしながら私は彼の永年の交誼を謝し、殊に戦後引き揚げた当時の手厚い友情に改めて「ありがとう」の礼を述べた。素面(しらふ)では仲々口に出せず三者の前では芝居がかって態(わざ)とらしい。この時の遺り取りは本当に良かった、何時までも忘れ難い、もう彼と逢う事はないだろう。

 先行きも長くない。私は毎朝近くの禅寺で坐禅を組み、般若心経を唱え観音経を誦んで祖先の菩提を供養すると共に病床の今井が平安な毎日である様祈っている。

 この手記は今井に送ろう。老人ホームの枕頭に届くだけでも良い。 完
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高? 幸江さん(89歳/福岡県大野城市)からの手紙
終戦後、北緯38度線突破の際、ロシヤ兵に見つからないよう逃避行をした時の団体のリーダー
 「あの時の あの方に」

 老い先短くなった今、どうしても「ありがとう」を言っておきたい人がいる。たとえその人は天国にいるとしても。

 時は、終戦時の60年前にタイムスリップ。北鮮から北緯38度線(今の北朝鮮と韓国の国境)を目指してロシヤ兵に見つからぬよう逃避行をした時のことだ。

 町内会のおじさんをリーダーにして一昼夜山谷を歩いた末、辿りついたのが、元の出発地点だった。

 その絶望感と言ったらなかった。

 この先どうなることかと不安に思っていた時他の町内会の団体と出合い、合流させて頂いた。

 そのリーダーの素晴らしかったこと。

 30歳半ば位の方で 坊やを肩車して先頭に立ち、美事な指揮振りだった。

 5、60人の団体なので、長い列をつくって行く途中で、列の半ば辺りの男性が、「オモニ(婦人)が、その方向でないと云っている」と叫んでも、それに迷わされることなく、御自分の信念を通されるなど、事々に凜々しく、真の男らしさを感じた。

 5、6日の山越え谷ゆく行軍の末、目出たく北緯38度線を突破した時の喜びは、一生忘れることは出来ない。

 全員が米国統治下圏に入った時、団体として全員でありがとうのお礼を言ったが、私個人としても直接御本人に、一言「ありがとうございました」とお礼が言いたかった。それが言えなかった。私もまだ若20歳代、一種の憧れさえ持っていたのに、戦前教育の慎ましさが邪魔をして。

 この方のリードのお蔭で無事生還出来たのだと、今までずうっと感謝の気持ちを持ち続けて来た。今、この恩人に心から云います。

 「ありがとう」
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