ありがとうプロジェクト
ありがとうの手紙作品紹介

小中学生 20歳以下 20代 30代 40代 50代 60代 70歳以上
60代の方からの手紙
ペンネーム:ほし きららさん(60歳/佐賀県みやき町)からの手紙
二人の娘にありがとう
 「お母さん、友達ね、夏休み家族で旅行に行くんだってよ。」と末娘。「お母さん従兄姉の写真見せてもらったら旅行写真いっぱいだったよ。」と長女の言葉。母親の私に何を言いたかったのでしょうか。わかっています「お母さん私たちも連れて行ってよ、夏休みの絵日記書けないよ。」と言いたかったはずです。しかし私の日々の仕事を見ていれば、とても言えなかったでしょう。長女が3年生、末娘が年長さんの時、働き者だった姑が突然脳卒中で倒れて、半身不随。自宅介護の為、姑をおいてとんでもないことです。まして夫の長年の夢であった酒小売店が少しずつお得意様もふえて、配達も多くなり、私自身、介護からくるつかれからか、娘たちがストレスの発散場所、それでも娘たちは、小さな体で私の手助けをしてくれました。その手助けを当然のごとく思っていた私でした。娘たちの気持も知らず、特に末娘は、まだ計算も早く出来ず、それもそのはず、小学校に入学して日浅く、それでも紙に書いて、お客様と一緒に計算したりで、大変な日々だったろうと思います。私が手が離せない時は、姑のポータブルトイレの掃除。一台しかないテレビを、ポータブルトイレの横で姑と一緒に見たり、おやつの時間になると、お茶とお茶菓子を姑に、姑のいる部屋がクサイなど一言も言いませんでした。だからこそ出来た姑の介護16年間、とても私の力だけではなかったのです。思い出の写真、二人の娘には作ってやれませんでした。心の中で申し訳なかったと思っています。たまに「お母さん私らの写真ないよね。」その言葉を耳にすると胸が張りさけるようですが、今の私の気持は、貴女たちがいたからこそ今のお母さんがいるのです。ありがとう。声を大にして言います。これから先は、貴女たちがお母さんからしてもらえなかったことを、貴女たちの子供にしてあげて下さいね。本当にありがとう。
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駕野 堯子さん(60歳/福岡市博多区)からの手紙
愛猫サンチェへ
 愛猫サンチェへ幸せをありがとう

 今はペット用の小さな仏壇の中で眠っている愛猫サンチェ。長い長い治療生活でとうとう力つきてしまったサンチェ。病院からの電話で急いでかけつけた時は、まだ温もりがあったネ。でも間に合わなかったごめんネ、一人にして。お正月は家に帰ろうと獣医さんと話していたのに12月21日14時にとうとう力つきてしまったサンチェ。

 毎日毎日面会に行って、亡くなる前の晩私の腕の中で30分以上もあごを乗せてじっとしていたサンチェ。面会時間が過ぎても帰るのがせつなくて獣医さんに「サンチェはこのまま眠りにつかないですかネ」とたずねた次の日力つきてしまったネ。

 あの時もう少し腕の中で甘えさせておけばよかった。くやまれてなりません。ごめんネ サンチェ。帰る時のサンチェの悲しそうな目が私の脳裏に焼きついてはなれません。サンチェなりにお別れしていたのでしょうか。

 「骨肉しゅ」サンチェの病名です。それを聞いた時は目の前がまっ暗になりました。7月から亡くなる12月21日まで5ヵ月間毎日毎日点滴と注射で痛い思いをさせてしまって、皮フが弱くなってかゆくてかいたのでしょうネ。皮フがさけて縫合手術までしなければいけなくなり本当にごめんネ、痛い思いばかりさせてしまって。

 我が家の家族となって14年間。子供が大学生の時、小倉の下宿近くで小さな小さな子猫を拾って一緒に生活していると聞いた時は非情にも捨てなさいと言ってしまった私でした。帰省の度に連れて帰って来て家の中でかわいい鳴き声を聞くと動物嫌いはどこへやら、すっかり私の方が子猫にはまってしまいました。

 大学卒業後、幸いにも自宅通勤が出来、子猫と一緒に生活出来る様になりました。無口な息子とサンチェの事で話がはずみ幸せな気分にさせてくれたサンチェ。ありがとうネ、14年間我が家のアイドルとして幸せな生活をさせてくれたサンチェ、ありがとう。

 今までにこんなに大きな声で泣いたのは初めてでした。サンチェ、痛かったでしょうネ、苦しかったでしょうネ、ごめんネ。動物病院の院長先生、獣医さん、スタッフの皆様、自分の子供の様にサンチェを見ていただいて本当にありがとうございました。

 お花いっぱいのひつぎの中で家族4人で号泣してサンチェを見送りました。

 火葬場で息子が天まで届けとばかり大きな声で呼びました。「サンチェ14年間幸せをありがとう」と。

 サンチェ本当に幸せをありがとう。

 今頃天国でニャーと鳴きながら遊んでいるのかな。それとも日なたぼっこしながらお昼寝しているのかな。もう一度サンチェの声が聞きたいヨ。
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浜崎 セイ子さん(61歳/佐賀県嬉野市)からの手紙
お父さん お母さん
お父さんお母さんへ

 今年は、暖冬でフキの頭が芽を出しはじめている今日この頃、お父さんお母さん今何をしていますか?

 千の風になって、大きな空を吹きわたって私たちを見守ってくれていますよね?

 終戦の年 昭和20年に生を受け早60年が過ぎました。

 母乳が少なく近所の人からもらい乳、またミルクの替わりに米をすりつぶし沸騰させこれを飲ませてくれていたこと、こんな話を今でも思い出しています。お父さん、お母さんが元気だった頃「私を生んでくれてありがとう」と一度でいいから言いたかった。千の風になってしまった今では本当に悔やんでなりません。

 親とは、木のうえに立って子供を見守っていることを聞かされてきましたね。また人の一生は、綱渡りよりも大変と言うこと…母親になり「親思う心にまさる親心」という意味や、お母さんの一言一言が私の脳にひびきます。

 「三つ子の魂百まで」。時折思い出し懐かしんでいます。

 戦時中大変だった頃にも両親、祖父母にかこまれ心は豊かに育ててくれ感謝しています。祖母が、うどんをいつも作ってくれていました。

 その頃のうどん手動製機が納屋から見つかりましたよ。とても懐かしく私たちを育ててくれた宝物…として大事に保管しています。その頃のうどんの味まで漂っています。

 今日は、ご報告したい事があり筆をとりました。

 今年3月31日定年退職36年5ヵ月無事勤務を終えようとしています。

 職場の上司、同僚のあたたかいご指導は、一生忘れることなくこれからの人生の糧として生きていきます。お礼の言葉は「感謝」の二文字。

 退職したあかつきは、山の上から「皆さんありがとう」と大声で叫ぶから「頑張ったね!」とこだましてね。

 今は、幸せいっぱいの日々を大事に過ごしております。

 生まれて初めてのお手紙、お父さんお母さんに必ず届きますように… かしこ

 セイ子より

 平成19年2月
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坂井 律子さん(62歳/佐賀県江北町)からの手紙
お父さん
お父さんへ

 お父さん、若い頃は勿論、還暦を過ぎても、私にいろいろと優しいことをしてくれましたね。私は、最近、そのことを思い出し有難うの気持ちで胸が一杯になります。その時は何気なく通り過ぎたことでも、今になると有難かったんだなあと気付くことがあります。

 私が嫁いで2年目のある日、白石からわざわざ、私が実家に行って忘れていたストッキングを届けてくれました。その時はストッキングぐらい…と思ったけど、思い出す度にその行為に頭が下がります。

 祐子が生まれた時は、雪の降るとても寒い日でした。その中を白石から江北の産婦人科医院まで自転車で見舞いに来てくれました。私はお産直後で「有難う」は言えなかったけど、有難うの気持ちは今でも心の底に焼きついています。

 お父さんは、私の高校時代も、随分、元気づけてくれました。『冬来たりなば春遠からじ』や、『虎穴に入らずんば虎児を得ず』の格言は、60を過ぎた今でも身に染みています。

 深夜まで受験勉強をしていると、階段をそーっと昇ってきて、ハスキーな声で「まあだしようとや。」と言ってくれました。優しい声・口調・言葉の一言一句は、今でも私の脳裏に残っています。

 私の幼児の頃、お父さんはよく、私とお姉ちゃんを散歩につれていってくれました。そして、道端に牛の糞が落ちていると、「ほら、おはぎの落ちとうよ。」と言って、幼い私たちを楽しませてくれました。思い出す度に心が温まります。

 今では、白石に行ってもお父さんの姿はありませんが、仏壇の前に座ると、目の前にお父さんの在りし日のお姿が現れます。今まで言いそびれていた感謝の気持ちをここに書きます。

 「お父さん、何十年もの間、私に優しくしてくれて、どうも有難う。」
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詫摩 典子さん(64歳/福岡県太宰府市)からの手紙
「ありがとう、私の職場へ」
 「おはよう!」

 私と職場の朝は、いつもこの言葉から始まります。事務所と会議室の二つの部屋に、響きわたるように大きな声で言います。

 19年の間勤務している職場です。いつも私一人ですが、月に2回ほどみなさんが集まります。

 イスもソファも机も、みんな私にとっては職場の同僚です。ポットも冷蔵庫も食器棚も。

 雨の日も、風の強い日も、私に安心して仕事をさせてくれるこの職場に、いつも感謝の気持をいだいています。

 だれにも相談出来ずに苦しくて、悲しくて泣き続けたのを、あなたたちは静かに見守ってくれていました。二女の結婚が決って、招待状などの作業を、遅くまでさせてもらったのも、この職場でしたね。自宅ではせまくて本当にあの時は助かりました。

 そう、そう、覚えていますか?

 台風17号の時、事務所が無くなっているとの連絡を受け大急ぎで事務所に着いた時、天井も壁も何もかも、みんなの姿は無くなっていて、一人ぼうぜんとしたのを、今でもはっきり記憶しています。

 整理整頓上手でなくてごめんね。

 毎日ピカピカしてあげられなくてごめんね。

 でも、なぜだか、自宅に居るよりもここの方が落ち着くのは、長く一緒に居るせいかも知れません。自転車で通勤出来るあいだは、もう少しがんばってみるつもりです。

 よろしくお願いしますね。

 ありがとう!

 安心して仕事させてもらって

 ありがとう!

 私をたくさん支えてくれて
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野田 耕作さん(66歳/福岡県筑紫野市)からの手紙
野田ツナ(母)
母上へ

 母上はいつも言っておられた。『どんなに貧乏しても、苦労しても、自分の事は自分で責任持って行動し人様には迷惑はかけてはいけない。何事も陰日向なく、真面目に一生懸命努力しなければいけない。そして、兄弟仲良く、日々感謝の気持ちを忘れずに』…と。

 その母上が、私たちが小さい時、当時は、戦後間もなく、物がない食糧難の時代から、成人になるまでの、食べ盛り、育ち盛りの私たちの為に、「辛い思いをさせたくない、」「人並みの事はさせたい」と毎日毎日、朝早くから夜遅くまで、なりふり構わず外で働き、帰ってきては、疲れきった体を休ませる間もなく、縫い物で朝方まで夜なべしてあった、働きずくめの、母上の姿が今でも目に焼き付いております。

 私たちは、自分が親の立場で子供を育てるようになった時、初めて、子供の為、一家の生計を支えていく為には、どれだけ自分を犠牲にし、努力しなければならない事か、並大抵の努力では出来ない事が身にしみて解りました。

 あの時の母上が、私たちの為に、自らを犠牲にし、身を粉にして働き、育てて頂いたお陰で、今の自分たちがいるのだという思いと、感謝の気持ちで一杯です。

 母上が100歳目前に、私たち6人の兄弟も、今では皆60歳を超えましたが、夫婦共々、誰一人欠ける事無く、家族も皆元気である事は、みんなこの様な母上に見守られ、育てられたお陰であり、母上がよく『何事にも真面目に努力していれば、必ず神様が見守ってあります』と言われますが、正に、その神のご加護の証しであると思います。

 母上が自力で歩けず介護を要する様になられたのは、昨年夏、洗面所で転倒された時からですが、以来、寝たきりにならない様に、ボケない様にと、痛い足腰を我慢しては、立ったり、腰掛けたり、しびれて痛む手や指を、曲げたり、伸ばしたり、など等、何かにつけて一生懸命努力される姿を見ては、…たとえ年老いても、【何事も諦めず、努力して生きていく事の大切さ】や、【自分に負けず、辛い気持ちを乗り越えて生きる事の大変さ】などなど、まだまだ母上の日々の姿から、私たちは、また新たな事を、学ばせて貰っています。この様に元気な母上の元で私たちは、誇りであり幸せ者です。

 どうかこれからは、あまり気負わず、力まず、今迄の様に、ジョークと笑顔で明るく、周囲の人を笑わせる、何時もの母上であって欲しいと思います。

 そして、私たち家族、孫(14名)の為、ひ孫(14名)の為に、まだまだ元気で、希望をもって長生きする事に、挑戦して頂きたいと願っております。

 私たちもこれから、今まで以上に兄弟、夫婦仲良くし、母上から教わり学んだ人生訓を肝に銘じ、子供に、孫に継承し、一日一日を大切に生きていきます。

 今では家族全員が母上を見守っています。頑張って下さい。長生きして下さい。

 子供一同代表 耕作(四男)より

 平成19年 2月吉日
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福住 眞智子さん(67歳/福岡県筑紫野市)からの手紙
亡くなった母へ
写真の中の母さんへ

 母さんは、「ありがとう」の言葉を、とても大事にしていましたね。

 病気で視力を失い、自分のことも何も出来なくなり、暗闇の中で、人の声をたよりに生きることは、とても辛かったと思います。そんな時、少しでも手を貸すと、必ず「ありがとう」の言葉を返してくれましたね。

 肺炎で入院し、危険な峠を何度か越えている時でも「ありがとう」の言葉を忘れませんでした。「ありがとう」が「ア・リ・ガ・トウ」に変わり「ア・リ・ガ…」と、だんだん言葉が出にくくなってきても、傍にいる私には、必ず声をかけてくれました。間も無くすると「ア……」だけしか、聞き取れなくなりました。それから「ア…」も無くなり、ずうっと荒い息をしながら、眠り続けていましたね。

 今度は、私の方から「ありがとう」の声掛けをしたら、目を覚ましてくれるかも知れない。母さんの耳元近くで「戦争で亡くなった父さんの分までも、身を粉にして働いて、育ててくれてありがとう」と感謝の気持ちを、心を込めて何度も言いました。それでも、何も応えてくれませんでした。

 でも、ちゃあんと聞いていてくれていたのですね。分厚く膨れ上がった右足が、とても痛そうだったので、軽く撫でてやっている時でした。「ア…」と微かに、母さんの声を聞いたのです。私は「ありがとうって言っているの」と大きな声で呼び戻しました。すると「ア……」と応えてくれました。

 それが母さんの最後の精魂を込めた「ありがとう」だったのですね。次の日、母さんの体は冷たくなり帰らぬ人となりました。

 今は、写真の中の母さんが、優しい笑顔で「ありがとう」と返してくれます。
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ペンネーム:稀山麻衣さん(67歳/佐賀県唐津市)からの手紙
春を待てずに青春を駆け抜けて逝った娘へ
 あれから13年、あなたと話がしたくて月参りを欠かした事はありません。幼い頃から小児喘息を引きずり、20歳の成人式を迎えた後も喘息発作は治まりませんでしたね。福岡の小児喘息専門病院で治療を受け入退院をくり返し、ある時は元気に遊びまわり、またある時はぜーぜーひゅうひゅう呼吸困難に陥り大発作、瞬く間にチアノーゼ反応を起こし随分危険な思いをしましたね。病院はあなたの第二の故郷。発作の度に片道60キロの道のりを「軽」をとばし夜も夜中も走り続けましたね。お母さん! 私もう駄目かもしれないね。だって今迄良くならないんだもの。ベッドの上でぽつんと呟いたあなたの言葉に、何言ってんの! 今迄生きて来たじゃないの! これからも一緒に生きて行こう。心の中では狼狽しながら見透かされまいと必死でした。

 働く事が大好きでアルバイトに励みましたね、そんなあなたが自立したいと家を出て2年が過ぎた頃、お母さん! 私初めて保険のある会社で働いているよ、あなたの弾んだ電話の声。良かったね発作が出たら早めに病院へ行くのよ。

 恋人の転勤で同行したあなたが、福岡を離れ年明けたら挙式の準備、発作もいつしか遠のき安心しかけた矢先に、きつい! 疲れた! 荷物はまだ手を付けていないのよ、電話の向こうで不安そうなあなたの声。鹿児島、長崎と短期間に2度の転勤だものね、無理しないでゆっくり片付けてね。その2日後でした、あなたが中発作で近くの病院に入ったと連絡を受けすぐに駆けつけました。ベッドの上には見覚えのあるネグリジェに身を包んだ変わり果てたあなたの姿がありました。

 ゆみ! お母さんよ聞こえる? 目を開けて! 長い黒髪は肩までかかり今にも起き出しそうなあなたの穏やかな表情でした。東京から駆けつけたお姉ちゃんが髪を結い爪にはマニキュアをつけ、だびに付されたたった一人の妹を涙で送ってくれました。享年24歳、生きようとして生きられなかった 在りし日のあなたにありがとう。
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太田 益子さん(67歳/福岡県遠賀町)からの手紙
恩師の岡山先生
 恩師の岡山先生へ

 先生お変わりなくお元気でお過しでしょうか。あの時から52年の歳月が流れようとしています。

 私が中3の時の担任だった先生は、当時23歳。熱意をもやして、教職に就(つ)かれ、3年目で初めて卒業生を送り出そうという時期でした。卒業式の朝、分厚い手紙をそっと手渡された私、その手紙は延々と、8枚程書かれていました。私に伝えたい事は、1年間反抗的だった私で、先生の担当の国語の勉強は一斉しなくて、さぞ心を痛めておられたと思います。

 “ほえる犬は石をなげたくなる様に可愛くないよ”、“しっぽをふる犬は頭をなでたくなる様に可愛いよ”。 貴女も反抗するばかりでは、これから先の長い人生きっと損するから素直になりなさいという様な事だったと思います。そうすると明るい楽しい生活が出来るよとの事でした。

 反抗ばかりして、申し訳なく思っていた私は、10年後に先生に謝る機会が来ました。私が反抗ばかりして悪かった旨を、めんめんとつづり送らせていただきました。

 永い間の胸のつかえがす―とおりたのを今でも鮮明に覚えております。

 67歳の今になって、23歳だった先生からいただいた注意の手紙が、今の私の人生に、大きな影響を与えており、感謝の念で一杯です。私だったら、あれ程の温かい心のこもった文章が書けるだろうか、又人に接する事が出来るだろうかと、自問自答している今日この頃です。すばらしい恩師をもった事は、私の一番の誇りです。これからは先生に感謝しながら、私に出来る事に、情熱を傾けます。

 素直に生きる事を教えて下さった先生に、誰よりも先に、ありがとうの手紙を送らせて、下さい。求菩提の山々の樹々が新緑に萌える頃、おたずねしたいと思っています。

 まだまだ寒さきびしい時期ですので、どうぞお体、お大事にお過し下さいませ。かしこ
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清原 正憲さん(68歳/大分県杵築市)からの手紙
里山に植えたケヤキ、モミジの幼木
 ケヤキ君とモミジちゃんへ

 君たちがこの山に根を張ってからもう4年。すっかり大きく成長しているのにお父さんはびっくりしています。ケヤキ君は身長3メートルを超え、モミジちゃんも枝を繁らせ里山のなかでひたすら陽光と水を頼りに風雪に耐えている。ありがとう。

 君たちはたくさんの友達とこの山で直根という支えの根をしっかり地下に伸ばしている。

 なぜ、この里山にきたのか。それはこうです。

 お父さんはこの里山で育ちおじいちゃんと炭焼きをしたり薪をとったりし当時はきれいな山でした。40年この古里を離れ都会で警察官をしていました。定年になりこの山に足を踏み入れてびっくり。君らの友達の松、椎、ドングリなどの姿が全くなくなり竹が占領して藪に覆われて無惨なものでした。

 ○フランスの農民が荒野に木を植えて見事な緑地にしたという本に出会ったんだ。

 そこで、僕は、一念発起し竹藪を伐りひらき森を再生しようと立ち上がり君たちに登場願ったのだ。

 君たちがこの里山にきてからいろんな困難に出会いました。ケヤキ君の幹を鹿に食べられたり、台風でモミジちゃんが吹きたおされたりしたんだ。あらかじめネットを張ったり支柱を立てていればよかったと大いに反省しています。でも春から夏にかけて君たちがどこにいるのか全くわからないように覆い茂る雑草を炎暑のなか年2回下草刈り作業を行い生長を助けているんだ。昨年秋には間に菜種を蒔いたので、春には菜の花が咲き蝶が遊びにくるので楽しみに待っててね。

 これからの君たちは、しっかり大地に根を張り、多くの枝に葉を茂らせCO2を吸収し酸素をはき出して空気をきれいにする大事な役目を果たしてくれると期待しています。さらにきれいな水を蓄えれば下流の川や海が潤うようになります。そうすればお父さんの苦労もふっ飛んでしまい「海は山の恋人」という言葉が生きてきます。

 これから何十年、何百年と生き続けて里山の主になってもられば僕の心は豊かにふくれてくる。

 以上
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西田 征さん(68歳/福岡県那珂川町)からの手紙
ミサ子へ

 いま、私は深い悔い改めと自責の念でこの手紙を書いています。面と向かって「ありがとう」は結婚生活37年間を共にした君にはどうしても言えません。

 一昨年の平成17年の暮れから、君は原因不明の腹部の激痛に襲われました。来る日も来る日も激痛との闘いでしたね。見る見る痩せ細っていく姿に、恐怖すら覚えました。年が明けて1月末からの入院生活。完治の難しい、発症原因すら究明されていない難病性の病気との診断でした。

 その瞬間から、私の生活も考えも一変しましたよ。掃除、洗濯、食事の準備、そして、退院後の定期的な通院の世話と。何としても元の元気で快活な君の笑顔を取り戻したいとの一念でした。

 しかし、この一変した生活の中で、実に沢山のことに気づかされました。現役の38年間を君はこうして私を支えてくれたのだよね。3人の子供の子育てを一身に引き受けながら。

 朝は私の気づかぬうちに床を抜け出し、愛情一杯の弁当は勿論、一日のエネルギーとなる温かい朝食が何気なく準備されていました。私はそれを当然のことと思って、感謝の気持ちすらうかびませんでした。

 こうして、家事の一つひとつと格闘する自分自身の今、君の現在までの行為の中に、どれ程多くの君の努力と愛情が注がれていたかをしみじみと感じています。「ありがとう」を何度繰り返しても私の気持ちはなぜか晴れません。

 あの時に「ありがとう」の一言がどうして言えなかったのかと自責の念にかられます。

 いま、1年間の闘病で病状も小康を得ています。頑張った君に精一杯の感謝を込めて「ありがとう」を言います。この先もよろしく。絶対に君を支えます。永年の心からの君の支えに、そして、果敢に病魔と闘って勝利しつつある君に、「ありがとう」。手紙だから言えました。これから先も「ありがとう」とお互い言い合える人生を二人三脚で歩みましょう。
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広瀬 美千子さん(69歳/福岡市博多区)からの手紙
名前も知らない「ありがとう」と言えない人へ
 名前も知らない「ありがとう」と言えない人へ

 新聞でこの企画を見た時から胸が騒ぐのです。

 突然夜中目が覚めると忘れ様と思い暮らして来た、この六十余年の事が映画を見る様に蘇る。時には苦しくにっこり、嬉しかったなあ、死ぬほど恐かったなあと。其の中で、「ありがとう」と言いたいのに言えなかった事、見知らぬ人の温かい言葉や受けた恩。ああ「ありがとう」と言ってないから苦しいんだ、おばあちゃん、先生、友達、子供たち、愛をくれる孫たち、みんな言って来ました。「じゃあだれ」と考えた時、ああ、…あの人だ、巻き寿司を食べる時私の心がやさしく胸が熱くなるのです。名前も知りません、顔も忘れ掛けています。でもあの時の空と貴男の後に広がる黒と赤と灰色の煙の中に見える焼け野原の私の街です。その日「私7歳、母、生後6ヵ月の弟」の3人、空しゅう警ほうのサイレンで、いつもの避難場所に逃げました。ビルの地下3階だったと思います。でもビルの前にはマッチ工場があり工場に火が付き、「工場が爆発しない内に逃げて下さい。」と言う声で皆、いっせいに地上に逃げました。何回かパンパンと言う音がして。私たちは最後でした。大勢の人が死にました。最後が幸いしたのか、…小柄の母に手を引かれ細長い神戸の町を六甲山に向って逃げました。暗い空が真赤に染り爆弾が雨の様に投下されます。私たちは山に行くのをあきらめ「山も火の海でした。」橋の下でだき合い小さく、小さくなっていました。眠った様でした。母は弟におっぱいを上げていました。「学校に集まる様に」と知らされ焼け焦げた死人の間を跨ぐ様に歩き、水溜まりがあれば足を冷やしながら歩きました。私たちは最後の様です。誰もいません。母の手を一秒も離しませんでした。と人が見えました。優しそうなお兄さんです。「大丈夫ですか」。「はい」、私は初めて涙が流れました。お兄さんは私をだっこしてくれました。又泣きました、お兄さんにしがみついて。母は正座をしていました。「学校迄はもう少しですから、みんな集まっていますよ」。「さあ元気を出して。よくがんばって来られたね。ああそうだこれを上げましょう」。とザックの中から出してくれたのが真黒い海苔で巻いた巻き寿司だったのです。巻き寿司なんて戦中初めて見る食べ物です。でもよく見ると黄色い積木の様な卵が、茶色の椎茸。青い三つ葉が、甘い甘い干瓢が、「さあさあ早く食べなさい、今朝母が作ってくれた弁当です、ぼくも貴女たちも死ななくて本当によかった。」

 私たち、何回も何回も何回も何回も頭を下げ、ふり向いて又頭を下げ皆の待つ学校へ。家は後形もなく焼け崩れ、ぶすぶすと、冬2月なのに暑く感じました。あの人も、何々さんも、おじさんも、とうふ屋の人も死んだと言う中で、貴女たちが助かるなんてと信じられない様子でした。一晩、ガードの下で従兄弟のお兄さんにギュウーとだかれて寝ました。四国に向う汽車に乗るため駅に。山の様な人でした。母の手をしっかりにぎり人と人との脇の下を潜ってやっと乗車口に、でも乗れません。母は私を窓から車内に投げこみました。受け取ってくれたのは後でわかったのですが中国の女性だったみたいです。「小さい母はどうして乗車出来たのか今でもわかりません。」「みちこ、みちこ」と離れた所で手をふっていました。母のあの様な「ほっ」とした顔は今でも忘れません。受け取ってくれた女性は私を膝にだき、にっこり笑うだけです。頭をいとしくなで笑うだけでした。暖かくて長い時間眠りました。女性が手を取って母の所へ連れて行ってくれ、「横浜」と言うのが聞え、私の顔にキスしてくれました。今迄かいだ事の無い匂いでした。

 窓から見える女性の胸から長い紐がひらひらと流れるのが目に残っています。初めての匂いが「ニンニク」、白い紐は「チョゴリ」の紐でした。

 お礼が、「ありがとう」が言いたくても言えない「お兄さんとおばちゃん」。数えられない「ありがとう」を言いたいです。

 おわり

 追伸、昨夜又ねむれなくて書きました。字もきたなく、思った事も書けていません。締め切りにも間に合わないかもわかりません。でもいいのです、書けて出す所がありましたのでありがとうございます。私の戦後はあと何年なのでしょう。
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