渕 幸代さん(51歳/佐賀県嬉野市)からの手紙
母へ
天国のかあちゃんへ
母ちゃん元気ですか?
そちらの世界に行ってからもうすぐ2年近くになりますね。もう足は痛くないですか? 母ちゃんはお別れの頃は私よりもうーんと心が若くて優しかったですね。思えば母ちゃんと暮らした50年はとても過酷でした。
父ちゃんは病気で働けず姉ちゃんは障害者という中で母ちゃんは40歳の時に私を生み、働きずくめでしたね。朝は暗いうちに起きて竈でご飯を炊き、昼は陶土工場で働き、帰ってから田畑で仕事をし、夜は着物の仕立てをして一人で家を守り、私を育ててくれましたね。
私は子供の頃、いつも何か言いようのない不安に襲われていました。「もし、母ちゃんが死んだら私はどうなるんやろ?」と。
夕方遅く外に出て母ちゃんの帰りを待っていると、遠くの曲がり角からリヤカーを引いて帰って来る母ちゃんの姿を見て、何とも言えない安堵感を覚えた事を思い出します。
しかし、主人が養子にきてくれ子供が生まれ賑やかになったのに、母ちゃんは暗い顔をしていましたね。私はどうしても母ちゃんを幸せな気分にさせる事ができなかった…辛かったよ…でも、あの深い悲しみは私の心を深くしてくれました。
母ちゃんはよくご近所の方から「陰日向無く働く人だ」と言われていましたね。何事にも真摯に向き合い、感謝の思いを込めて働いていた母ちゃんに恥じないようにと思って生きています。わがままな私なので真似はなかなかできませんが母ちゃんのお陰で、楽しみながら仕事をさせてもらう癖がつきました。
母ちゃんは歳をとって弱くなり、雪が解ける様に去っていきましたね。老いていく母ちゃんのお世話をさせて貰った事はヘルパーの仕事をする私にとって底力になっています。
全て私のためになる生き方をしてくれた母ちゃん…本当にありがとう。
ペンネーム:ナンチュウさん(51歳/福岡市早良区)からの手紙
父
おとうさん、早いもので、もう、半年以上経ちました。
お元気ですか?
心不全で夜中、いきなり旅立ってしまいましたね。私たちに何の相談もなく、「いきなり!」だもん。びっくりしました。
入院中のお母さんには、まだ、言えずにいます。
お母さんに癌が見つかって、余命宣告されて、がっかりしたんでしょう?
20年に渡る、介護、大変でしたね。
「いつかお迎えが来る。それまでは、俺が看病する」って、脳梗塞のお母さんを、ずっと看病していましたもんね。
「いつか…」が「あと、2ヵ月の命…」に変わってから、おとうさんの方がまいってしまいましたっけ…
でもね、父さんが旅立ってから、8ヵ月経つけど、お母さん、元気ですよ。
「あと・2ヵ月」なんて、まちがいでしたよ。
おとうさんの代わりは到底出来ないけど、娘二人で、ちゃんと看ていますよ。寝たきりで、私たちのことは判らないみたいだけど、「あーあー」って独りごと言うんです。 「おとうさんは?」って言っているんでしょうね、きっと。風になったおとうさんは、眠っているお母さんの処に、いつも遊びにきているんでしょう? 窓越しに暖かい春の光を降り注いでいるんでしょう?
かあさん…目が見えないのに、目あけて、窓の方をいつも向いているんだもん。心の瞳が、とうさんを、見つめているのかな。見えるのね、きっと。
大丈夫だよ、とうさん。
長い間、ありがとうね。
まだ、お母さんを迎えにこないでね、私達が寂しくなります。
もう少し、お母さんのそばにいさせてください。私たちもまだ、甘えたい。
時が来たら、神様が連れて行かれるでしょう。そしたら、二人で昔のように、散歩してください。
それまでは、見守ってくださいね。
ありがとう、おとうさん。
鈴木 由美子さん(51歳/福岡市東区)からの手紙
亡くなった祖母へ
山法師の樹の下に
ぷっくりぷっくり吐息のような煙が、山法師の花を揺すって、白い雲と溶け合う頃、いつも庭の木陰にはおばあちゃんがいた。煙草をおいしそうに、そして幸せそうに空を見つめていた。何を思っていたの?
あなたが逝ってもう10年以上の歳月が過ぎてしまったのに、私の心の中はいまだにあなたへの後悔の嵐が吹き荒れています。
幼い頃から育ててもらった「ありがとう」の一言も言えずに急に一人で遠い天国へいってしまうなんて…。
でもそれだけじゃない。おばあちゃんは私たち4人家族のためだけに、余命を延ばして必死に生きてくれたんだね。入院してほとんど歩けなくなっていたのに、私の夫が単身赴任になると同時にみるみる元気になって、一人で電車に乗り一人で歩いて…私の息子たちの日々の世話をしてくれた。幼い二人を抱きしめてくれた。私の夢であった仕事を続けさせるためにもだよね。
そして、まだ若かった私のさびしさ、精一杯意地を張っている苦しみも黙って見守ってくれていた。
「豊(ゆたか)さん、豊(ゆたか)さん、ゆたかさあん…。」
子供達が寝静まって誰にも聞こえないように、私は湯船の中で、寝床の中で泣いた。
あなたは陰でそっと一緒に涙を流してくれたんだね。何にも知らなかった…。だから、あんなに優しくいつも笑っていたんだね。
なのに、私は苦しみや悲しさを押さえ切れず、ついあなたに八つ当たりし傷つけた。
次の日、泣きながら帰って行った後ろ姿…。ほんとうにごめんなさい。何十回何百回言っても足りないよ。ごめんなさい。ごめんなさい。
夫が5年間の赴任を終えて、我が家へ帰り、喜びと安心で一杯だった2月の寒い朝、あなたは突然そっと旅出っていった。まるで最後の役目を終えたかのように、そして私に生涯の秘密を明かすことなく…。
自分が本当の祖母でないことを知ったら、私が、私の心が変わってしまうって心配したの? おばあちゃん…。
私はとうの昔から知っていたよ。知っててわがまま言って甘えていた。
だからこそ、ほんとうにごめんなさい。
そして、百万回言わせて。ありがとう。
田添 良子さん(52歳/鹿児島県阿久根市)からの手紙
亡き夫
“ありがとう あなた”
あなたに“ありがとう”を言えないまま7年が過ぎようとしています。あなたは家族の為に一生懸命働いて、私は家事と育児に追われて、子供達は勉強にスポーツにと頑張っていました。そんな平凡な毎日がいつの間にか当たり前だと思っていました。改めて感謝の言葉を言う訳でもなく、ただ毎日を平和に暮していました。あの夏の日、あなたはいつものように「行ってきます。」と言って仕事に出かけて行きました。毎日昼食には帰って来るのに珍しくその日は「今日は仕事が済まなくて帰れない。ゴメンネ。」と電話して来ましたね。私は別に長話しをする訳でもなく「わかった。じゃあね。」と電話を切りました。それがあなたと交わした最後の言葉。今もハッキリ覚えています。「ゴメンネ。」のあなたの優しい声。その数時間後あなたは交通事故に遭い、私と娘がかけつけた時はもう意識もなく、いくら名前を呼んでも目を覚ますことはありませんでした。
今までの生活は一変し、平凡な暮しがどれほど幸せだったか、どれ程愛されていたか思い知らされました。絶望の中にいた私を支えてくれたのは、あなたとの幸せな日々の思い出と子供達でした。あの時大学生だったあなたの自慢の息子は、立派な社会人になり今年可愛いい彼女と結婚します。
あなたが目に入れても痛くない中学生だった娘は、成人式を終え夢に向って頑張っています。そんな二人の姿に支えられ私も無我夢中でここまで来ました。子供達の心の中にはいつもあなたが生きています。もちろん私の中にも。何かあるたびにあなたを思い出し、子供達の成長を何度あなたと共にわかち合いたいと思った事か。今、大人になり自分の足で歩いている子供達を見て、やっとあなたに言う事ができます。
「いつも家族を一番大切にしてくれてありがとう。家族の為に働いてくれてありがとう。そして誰よりも私を愛してくれてありがとう。」
ペンネーム:ガンダムの母さん(52歳/長崎県松浦市)からの手紙
長男トムへ送る手紙
拝啓
貴方のはにかんだ笑顔が見られなくなり、私の手から大切な大切な宝物がこぼれ落ちて5年もの月日が流れてしまいましたね。流す涙も枯れる程涙した5年でした。
貴方に“ありがとう”の手紙より“ごめんなさい”の手紙を書かなければいけないとの想いで5年間すごして来ました。この1月1日やっと貴方へ『ごめんなさい、これからも一緒に生きて行きましょうね』と手紙を供えることが出来ましたので心を整理してこの手紙を書いています。
本当に色々な事がありすぎて、何にありがとうの言葉を託して良いのかわかりません。でもやっぱり一番に言えるのは、私を母として育ててくれたのは貴方だ…ということにありがとうと言わせて下さい。でも育ててもらった私は貴方をしっかり育てたつもりなのに、十分見守る事も助ける事も出来なかった事をずっとずっと後悔しています。
5年前、貴方は私とのTELのやりとりで「大丈夫。心配しなくて良いよ」と言いながら、数時間後には他界してしまいましたね。本当はあの言葉の奥に“助けて”の想いが込められていたのではないか…とずっとずっと今の今迄、今でも自問自答をくり返し迷路をさまよっています。それなのに仏壇や家の中の貴方の写真はいつもはにかみがちに笑っていますね。その笑顔の写真を見る事が出来ず、ずっと避けて来ました。ダメなお母さんと笑っている事でしょう。貴方がいなくなって心の整理が出来ず通い始めたカウンセリングセミナーで自分探しをしているうちに貴方から手紙をもらいましたね。その手紙に『いまのままのお母さんでいて下さい。いつまでも悩まずいつも頑張っているお母さんが僕は大好きです。その方が僕もうれしいよ』とあり、その手紙の言葉に背中を押される様にして今日迄すごす事が出来ています。
貴方を亡くし、お父さんも次男もそれぞれが自分を責め後悔しながらここまで来ました。それでも2人共お母さんに温かい言葉かけと見守りを忘れず、やさしいまなざしをなげかけてくれています。お父さんや次男の背後にきっと貴方がいるのだろうな…と最近やっと思える様になりました。私達家族はこれからもずっと4人一緒ですよね。私は貴方が生まれてからずっと私なりに子育てを楽しみ貴方を愛し、私なりの愛情を注いで来たつもりでした。でもその全てが一瞬にして間違っていたのではないかとの思いに変わって思い悩んできた5年間です。
きっとこの思いが変わることはないのでしょうが、この想いと共に貴方からもらった“楽しい思い出、一つ一つの言葉”これこそが私が貴方にありがとうの言葉で返さなければいけない事だと思っています。
いつの日か私が貴方に会えた時、ごめんなさいの言葉と共にありがとうの言葉を添えたいと思っています。心の底から“ありがとう”と言えるその日迄、私を取り巻く全ての人・物・環境に心から感謝した日々が送れる自分でありたいと思っています。そんなお母さんとこれからも一緒にお母さんの心の中で生き続けて下さいね。“ありがとう、そしてごめんなさい”。いつか又必ず会えるその日を楽しみにしています。
敬具
※息子へ手紙を書く機会を下さった事に感謝します。1月1日の手紙と共に息子の仏壇へ供えたいと思っています。ありがとうございました。
仁田原 恵子さん(52歳/福岡県黒木町)からの手紙
父
平成18年12月14日金婚式を迎えた父と母へ。
周りの人は誰でも知ってることだけど私たちは父の本当の子供ではありません。不慮の事故で急逝した27歳の父。残ったのは3歳の姉と1歳半の私、母のおなかにいた弟。一家の大黒柱を失い途方にくれたであろう母。
どういう経緯があったのか知らないけれどその年の暮れ、父の弟だった貴方が母の夫にそして私たち3人の子供の父親になった。まだ24歳と若かった貴方。好きな人はいなかったのですか? 将来を誓い合った人はいなかったのでしょうか。家のためとはいえ自分の運命を悔やんだりしなかったのでしょうか。
母に自分の本当の子供は要らないといったそうですね。でも母は自分の子供ももっとくべきだと言った。そして生まれた一番下の弟。私はこの弟が生まれた朝の事を覚えています。4歳になって間もない頃、朝からネコがにゃーにゃー鳴いてると起きていったらそれはネコではなく赤ちゃんの泣き声だった。その弟もいまでは顔つきから仕草まで貴方そっくりでちょっと笑ってしまいます。
小学3年生だったでしょうか? 友達のお母さんが何気に言った一言で私たちが貴方の本当の子供ではないことを知りました。でも不思議と驚いたりしなかった。だって貴方以外にお父さんを知らないのですから。
40代の半ばに大病した母。あと3ヵ月の命といわれてみんなで泣きました。でも神様は私たちに味方した。それから60代になって母は片方の視力を失います。それでも「人間は病気では死なんとよ寿命で死ぬと」という母。そんな母に「中古で修繕賃もだいぶかかったばってん、まぁだ強しとらすけん良かたい」という父。
去年の秋にみんなで金婚式のお祝いをしましたね。すぐ下の弟が「俺が一番迷惑かけた。これからも迷惑かけどおしかもしれんけど宜しく」と言って泣いていました。50歳の大人がね。でもあのときはみんな同じ気持ちだったのですよ。私たちは貴方の子供でいられて本当に幸せです。
いつまでも手のかかる子供で申し訳ないと思いながらこれからもどうぞ宜しくお願いします。
世界でただ一人のお父さんへ。
ペンネーム:山ゆりさん(53歳/福岡県みやま市)からの手紙
父親へ(事故で昭和38年に他界した)
お父さん、あなたが私たちの前から突然いなくなったのは今日の様に小雨が降る日でしたね。交通事故という悪魔に連れ去られてしまった時、10歳の私は悪さをしては、おこられてばかりだったので、「これでおこられんで済む」。と思った事を覚えています。
それから寂しさを肌で感じるまでに時間はかかりませんでした。どうしようもなく寂しかった日の事、今でも忘れられません。
お父さんはまだ38歳のまんまですか?
がっちりとした体格で少し長顔のあの姿のまんまですか? 悲しい事にあなたの声は忘れました。けど思い出は幾つかあります。幼い私を自転車の荷台に乗せて走っていた時の事、田植えが終ったばかりの田んぼに突っ込んでしまいましたよね。泥水で汚れた私の身体を手ぬぐいで何度も何度も拭いてくれました。髪の毛は泥でカパカパになってしまいましたよね。幼き日の貴重な思い出です。今も目をつぶると田んぼの中に二人の姿が見えます。
二人の弟たちはお父さんとの思い出はあるのでしょうか、今まで聞いた事すらありません。今度機会があったら聞いてみましょうね。下の弟なんか幼すぎて何もないでしょうね。3歳だったから。
お父さん、あなたは何か覚えてますか。
時が経つのは早いものであれから43年になります。私たち兄弟はそれぞれに家族を持ち幸福に暮らしています。お父さんには孫が5人、ひ孫が2人いるんですよ。立派なお爺さんです。
これまで人並みの生活をしてこれたのはお母さんが一人で頑張ってくれたからです。いや、人並み以上の事をしてくれました。再婚もせず、母親としてだけ生きてくれました。そんなお母さんも80歳に手が届く年になりましたよ。背中は丸くなり皺も増えてどう見てもお婆さんです。けど、まだ一人で頑張っていますよ。何でもやってのける気力と体力には、私も驚くばかりです。
お父さん、あなたの傍に行くその日までお母さんの元気を後押ししてあげて下さい。娘からの頼みです。
外の雨はまだ止みそうにありません。
こんな雨の日に、いい時間を持てた事に感謝しなければね、お父さん。
きょうは、このまま降り続けて欲しい。お父さんの事をずっと思っていたいから。
38歳のお父さんへ 53歳の娘より
東本 聖世さん(53歳/福岡市博多区)からの手紙
杉嶋先生
牧師先生、この4月、さことえりは、神学校に入学致します。二人は小さい時からキリストを信じ、教会学校で聖書を学び、礼拝では奏楽奉仕のピアニストとして少女時代を過ごし、青年へと成長致しました。私の家庭はとても仲の良い4人家族。牧師先生もご存知の通り、平成8年、さこが中3で高校受験の頃、家族全員で音楽科の公開講座に行く途中、正面衝突の大事故に遭いました。車は大破しましたが、不思議なことに家族全員の生命に別状はありませんでした。
それから1年後、運転していた父親だけが、ハンドル打撲の後遺症により膵臓炎を発病し、動脈瘤を併発。生命の危機に晒されました。入院中の重度の患者さん達の闘病の末、悲しみの骸となって次々に無言の帰宅をして行く姿を日々悲観しつつ見続けました。そして私達家族にも主治医から覚悟するように宣告されました。苦しい闘病生活が続きましたが、その後、父親は奇跡的に回復に向かったのです。しかし、元の元気な覇気のある表情は失われ、仕事ができる状態までには至りませんでした。そのため、私は一家の中心となり、深い悩みと限りない不安を抱きながら、平成12年、単身働きに出ることにしました。家族のことを教会の牧師である杉嶋先生に託して。単身で働きに出た私自身も、更年期や二度にわたる骨折等、次々に健康上の問題に悩まされていましたが、何とか切り抜ける事が出来ました。
ある日、私が不在中に娘の反抗期は起きました。学校に行っては淋しい思いを隠して、母親のいない家には帰らずに、毎日教会に立ち寄っていました。そんな娘を、牧師先生が聖書の御言葉を通して、世の中の不条理や人としてのあり方を繰り返しお教え下さり、引き受けて下さいました。何よりも不登校や頻繁に早退を繰り返す娘を心から、神様の愛により祈り、導き、助け見守って下さいました。
平成15年7月、牧師先生は他の教会に移られましたね。その後、青年に成長した娘達は、それぞれの大学に進み、親の期待に応え、順調に卒業することが出来ました。この春、娘達は自身の生涯を信じる神様に献身を誓い、神学校へと召し出されます。娘達は、牧師先生が神様の愛により祈り、導き、助け見守って下さったことを倣い、牧師になることを目指して。この先も苦労は続くかもしれません。しかし、父親にとりましても、私にとりましても、深い恵みなのです。
昨年7月、杉嶋牧師先生が38年間の牧師生活を引退された事を機関誌で知りました。杉嶋牧師先生、長い間の教会でのお働き、お疲れ様でした。心から感謝の言葉を申し上げます。本当に、ありがとうございました。
山下 マルミさん(54歳/福岡県筑紫野市)からの手紙
夫、山下政則へ
おパパ、覚えていますか? 大学病院へ転院する前の日、面会時間を過ぎた薄暗い食堂で、お葬式用の写真を渡した時の事。悲しかったね。私も女ですもの、一番きれいに撮れた写真を飾ってほしかったんだ。覚悟はできていたよ。もう50年生きたからいいかって。一人娘も結婚前だけど素敵な彼がいるしね。でも、あなた一人残すのが心配だったよ。60歳に手が届いているし、その体型じゃだーれも女の人相手にしてくれないでしょ? 人一倍淋しがりやさんだからね。やっぱり私、死ねない。
それから抗がん剤の副作用に苦しんだ8ヵ月。自宅療養って家族には迷惑だよね。2週間おきに通院し、帰った時はヨレヨレ状態。3日3晩吐き続けたっけ。吐き気がおさまったら全身が痛かったり、熱がでたり。つい八つ当たりしてしまったの。辛かったね。あなた、よく体をさすってくれた。仕事で疲れていたのにね。
そして春。CT検査の結果を聞いたのは、ひなまつりの日だったね。がんが消えたってメール打つ手震えていたよ。あなた、仕事から帰ってきて「ただいま」って言う代わりに抱きしめてくれた。この歳でちょっと照れ臭かった。本当に嬉しかったね。
あれから2年、まだまだ虚弱体質の私だけど、たまには温泉でも行きましょうね。そうそう、お弁当も持っていきましょう。わかってますよ。手作りのクリームコロッケ必ず入れますから。楽しみだね。
おパパ、私知ってるんだ。体調を気遣って毎朝先に起きてくれてるけど、おふとんから出る時、私のおでこにそっと手をあててる事。熱が出てないかチェックしてるの? それとも…フフフ。
悲しい時、辛い時、嬉しい時、楽しい時、いつも一緒にいてくれるおパパ。
ありがとう
嶋立 陽子さん(54歳/福岡県鞍手町)からの手紙
「エスとメイと家族に」
「エスとメイと家族にありがとう」
拝啓
陽子ちゃん、朝の散歩は終わりましたか?
私は今、貴方たちと一緒に暮らした23年間を振り返って、ありがとうの気持で一杯です。8年前、輝行さんが駐在所に赴任したのがきっかけで、子犬を貰ってきてからこの散歩は毎日続いていますネ。
名前は「エス」。早速、動物病院に予防注射に行ったり、保健所の「しつけ教室」に行ったりと毎日がとても楽しく賑やかに時間が過ぎていきました。エスは、我が家に来た時から駐在所のアイドル犬として大活躍! 駐在所を訪れた人には、大きな尻尾を元気良く振ってお出迎えをしていた姿が、今でも目に浮かびます。それに、何と言っても、その大きな体が傍にいるだけで、とても頼もしい存在でしたヨ。
4年後。エスの息子「メイ」が家族に加わり、一段と賑やかさが増してきた頃、この駐在所は廃止される事になりました。「エスやメイに会うだけで元気になる」と杖をつきながら歩いてきていたおばあちゃん、河川敷でボール投げなどをして一緒に遊んだワンチャンや子供たちが、今までありがとう!と、駐在所にお別れに来てくれた時、淋しいけれどとても嬉しかったですね。
それから1年後。別の駐在所に住むようになった頃から、私の病気(膠原病)の具合が一段と悪くなり、変形してしまった手足が動かなくなってきました。エスは、私の痛みが解っているかのように、私が頭を撫でやすい所まで自分の頭を持って来てくれましたネ。私が外出できないで留守番をしている時には、2匹で私の部屋に入ってきてベッドにあごを乗せたり、ベッドの傍の床で寝ていてくれましたネ。どんな時も、私の傍にエスとメイが居てくれたので寂しい思いをしなくてすみました。本当にありがとう。
私が、歩行器の助けを借りなければ歩く事が難しくなった頃、私の何度目かの入院が決まりました。私の中に、エスとメイの予防注射や薬の事などをしておかなければ…と言う気持ちがよぎりました。そんな気持ちからか、つい陽子ちゃんに「もう帰って来れないかもしれない。これだけはして行くからね」と言ってしまいました。
入院中、エスとメイを何度もお見舞いに連れて来てくれてありがとう。もう、あの時の私には、エスとメイに触るだけの力しか残っていませんでした。あの子たちに触れる事だけが私の喜びでした。最後のお別れの時。天国に行く途中、賛美歌の流れる古い教会の庭でエスとメイがきちんと座って私を見送ってくれていたのが見えたので、とてもうれしかったですヨ。今日も、天国からエスとメイが田んぼの中を走っている姿が見えていますヨ。
エス、メイ、そしてみんな、本当にありがとう。
かをる
私の姉、和歌山かをるが2年前亡なくなりました。家族で飼っているゴールデンレトリバーの愛犬たちにたくさんの元気をもらいながら生きていました。きっと、こんな風に思っていたのではないかと、主人と話しながらありがとうの手紙を書いてみました。ふと、目にした新聞のありがとうの手紙の募集欄、こんなに二人が同じように姉の事を思っていたのかと、手紙を書くうちに嬉しく思い、また、いろいろな事を思い出し二人で、涙を流しました。青い大きな空を見ながら、田んぼの中を走り回るエスとメイと一緒に、見えてますか? みんなはこんなに元気だよ!と、叫びたくなりました。
こんな時間をつくってもらい、私たちも、感謝しています。ありがとうございました。
森田 修示さん(55歳/福岡県柳川市)からの手紙
二人の息子へ
ありがとうの手紙 〜息子達へ〜
君たちが元気よく生まれてきた時、お父さんは、一つのささやかな夢を描いた。成人した君たちと3人で、いつかアメリカ大陸を横断することだった。一昨年の夏、それは叶った。
全くあてのない無計画の旅だった。ニューヨーク行きとロサンゼルスからの帰りの航空券。それだけしか決めていなかった。ニューヨークに降り立ち、グラウンドゼロを目指した。何かしらゼロからの出発という思いがあった。
ワシントンでレンタカーを借り、気ままに南を目指した。アトランタでしばし滞在し、灼熱の日差しの中、ルート10を西へと向かう。
地図でルートやモーテルを探すのは長男。ファストフードの店探しや食料・飲料水の買い出しは、次男。そして運転はお父さん。毎日ハンバーガーやタコスを食べて、一路西海岸を目指す。
果てしなく直線が続く南部のハイウエイ。お土産に買った寒暖計を車内に吊した。もうとっくに水銀柱が限界を超え、壊れている。旅も2週間過ぎると3人とも疲れてきたね。疲労がピークに達すると、みんなわがままになって、些細なことでいらだち、不平や不満が出てきた。「みんなきついんだよ。3人が気力を出して、力を合わせないと横断なんてとても達成できない。」初めて、君たちに怒った。
西海岸にほど近いグランドキャニオンに着き、大地の織りなす壮大な景色を見ても誰も感動しなかった。「あの暑い砂漠の中を何千kmと緊張しながら走って来たんだから、グランドキャニオンなんて。」それは3人の共通した感想だった。
親子3人の3週間に及ぶ旅が終わった。お父さんは英彦山の山頂に笑顔で待っているお母さんに「無事3人でアメリカ大陸を横断出来たよ。」と報告した。お母さんは、いつものように一筋の明るい光で答えてくれた。「良かったね」って。
ありがとう! 生きることを失いかけた気弱な父を、いつも明るく支えてくれるたくましく育った息子たち。最高の夢が叶った。大好きだったお母さんが突然逝って、もう3年だね。
荒木 佳代子さん(55歳/福岡市西区)からの手紙
通い猫のポッポへ
「通い猫のポッポちゃんへ」
あなたが我が家に通い始めて早いもので、十余年が経ちますね。当時、我が家にはチビ太と言う優しくちょっぴり臆病な猫がいて、他の猫とは全然馴染めなかったのに、時折ベランダに姿をみせるあなたはまっ白で可愛い声を出すせいか、すっかり気に入ってしまい窓際に走り寄ってはみつめていました。チビ太は私たちの願いも空しく12歳であの世へと旅立ってしまい、その後は心にポッカリと穴があいた様で淋しい限りでしたが、その穴を埋めてくれたのがポッポ、あなたです。しばらくして御近所の飼猫とわかったものの、気まぐれに一寸ばかりカツオ節を与えると美味しそうに食べ、これがきっかけで家に上げ、雨にも風にもそして台風にも負けず、あなたは通ってきましたね。日がな一日寒い冬にはヒーターの前を陣取り、暑い夏にはクーラーの真下で小さなイビキをかきながら熟睡している、安心し切った寝顔にどんなに慰められてきた事か。西方沖地震の折も私の食卓の下で避難(?)体験、何もかも知っておるなり竈(かまど)猫の存在となりましたね。一昨年のある日曜日、私はひどいめまいを起こし救急車で運ばれるハメとなりました。その日は朝早くからポッポは我が家にきており気持ち良くねていたものの、老いた両親も私に付添うハメとなり、その結果、ポッポも外へ出されましたね。後で母に聞くと、「あなたが玄関から救急車へのせられる時、ポッポは庭に座って心配そうにジッとみつめていたよ」との事で、私が半日経て戻ってくるとスーッと姿を現わしましたね。その時、私は折角楽しみに通ってきているポッポの慰(なごみ)を病にて台無しにした様で、改めて可哀そうだったと感じ、病にかかるのは致し方ないもののポッポの為にも、我が身の健康管理には気をつけねばと思いましたよ。そしてその思いはポッポを案じる事で、逆にポッポに依って自分も頑張らねば…その張りを持つ事は逆に生かされる事にもつながると思えてきました。
庄嵜 英子さん(56歳/佐賀県鳥栖市)からの手紙
家族と14年あまり過ごした愛犬「さざえ」
「ありがとう」
あなたが、家に来た時、娘は7歳になったばかりだった。その娘が、ことし成人式を迎えた。でも、あなたは、娘の晴れ姿を見ることもなく昨年の11月、逝ってしまった。
覚えていますか、あなたが、家に来た日のこと、近くの山に家族で登りましたね。あなたは、あまりじょうずに歩けなくて、コロコロ転んでいてみんなで大笑いしました。でも、とってもかわいかった。
覚えていますか。娘が12歳の時、父と母が大けんかをした日のこと。不安そうな娘のそばでじっと寄り添ってくれたね。とてもうれしかったよ。
覚えていますか。娘が16歳の時、数年ぶりの大雪でした。あなたは飛び上がって喜んで庭をかけ回りました。あたり一面、雪国と化した家の写真をアメリカにいる娘に送ってあげた日のこと、昨日のことのようによみがえってきます。
昨年の10月、あなたは突然、食欲がなくなった。あんなに何でも欲しがっていたのに。
でもいつものように、私が帰ると玄関まで迎えに来て、寂しがり屋のあなたは私と一緒に2階の寝室まで上がってきて、私のそばで眠った。
そして、お別れの日、いつもは、ほとんど家にいない私が、むしが知らせたように家にいた。あなたは、赤ちゃんにもどったように小さな声でクンクンと鳴いた。そして、私の腕の中で眠るように逝ってしまった。
あなたの遺灰の中から、胆石のような石が2こでてきた。苦しかったでしょう。痛かったでしょう。でも、あなたはいつもやさしいまなざしでわたしたち家族のそばにいてくれた。よく頑張ってくれたね。ありがとう。もう、いいよ。天国でゆっくりお休み。
私たち家族は、決してわすれないよ、あなたのこと。
ありがとう。ほんとにありがとう。さざえ。
愛する さざえへ
英子
花田 美佐子さん(56歳/福岡市南区)からの手紙
陳君怡 様へ
爽やかな笑顔と一緒に、毎日夕刊を届けてくれて「ありがとう」。両手を添えてだいじに渡してくれる、やさしい仕草。
「ごくろうさま」「ありがとう」の声かけにはちきれんばかりの笑顔を残し、次の配達へと急ぐバイクの後姿が…何と愛おしい事か… "ただ"それだけの数秒のふれあい。いつの日からか、日を追うごとに私たち夫婦は仕事をしながら、時計を気にしつつ名前も知らない「あなた」を待つ様になりました。
ほんの少し言葉を交わす中で、台湾からの留学生で猪(ブタ)年生まれで2月8日誕生日、そして1月31日で新聞配達のバイトを終える、と教えてくれましたね。急に淋しさを感じました。家族と離れ、言葉も文化もライフスタイルも違う外国での生活…計り知れない数多くのご苦労があった事でしょうね。
今後どうなさるか知る由もありませんが、自分の目標に向かって頑張って下さいね。私たち夫婦は、何も力になれませんが、ただ…密かに心の中で「そおっと」応援していますよ。とうとうお別れの1月31日。あなたは、いつもより30分早い、我が家だけの夕刊一部と両手にはだいじそうに2人分の飲み物、「温かいうちに飲んで下さい」と思いがけないプレゼントに、感動しました。珍珠
茶(タピオカ)という飲み物で、私の名前は陳君怡(チンクンイ)とメモしてくれましたね。両親は君(クン)ちゃんと呼ぶとも…思い出した様にニコッとしながら。わざわざ作って持って来て下さったお茶の味は、何もかにもがプラスされて一段とおいしく彼女との思い出を語りながら、ゆっくり、ゆっくり味わいましたよ。奇しくも、その日は、私の56歳のバースデェイでした。
私にも、君(クン)ちゃんと呼ばせて下さいね。君(クン)ちゃん!! すてきな出会いを「ありがとう」
幸せなひとときを「ありがとう」
松浦 勝子さん(57歳/福岡県筑紫野市)からの手紙
夫へ
アンタに手紙を書くのは、久しぶりです。
結婚して初めてじゃないかな。
独身のころは、あんなにやりとりしていたのにね。いつも一緒にいると話せばいいことだもん。でもね、口で言うのはちょっと照れるし、ならば(文字で)って思ったんよ。
あと4年あったけど、早期退職してアンタは自営を始めたね。それからは「行ってきます」を言うのがウチで「行ってらっしゃい」がアンタになった。
「主人を立てて、家に波風を立てないようにするのが妻の務めぞ」
三十数年前の、嫁ぐ日。明治生まれの父が言ったはなむけのことば。なかなか守れないよ。でも波風が立ったらどうするか、それを父ちゃんは教えてくれなかった。それを教えてくれたのは、アンタ、アンタだと思うよ。
些細なことで言い合った翌朝、ウチはふくれっ面をして蚊の鳴くような声で「行ってきます」と言う。それに答えるアンタの「行ってらっしゃい」は違う。2・3軒となりまで聞こえそうなくらい、大きくて元気な声なんだよね。最初はびっくりしたよ、昨日の喧嘩はどうなったのよって。
その明るい声を聞いて自転車を漕ぐとね、春風が後押ししてくれているように、ペダルが軽いんだよ。昨日はあんなに憎らしく思ったのに「ちょっと言い過ぎたかな」って反省したりするんだ。不思議だね。
ウチが専業主婦で、アンタが勤めに出ていたころ、ウチはそれができなかった。ムッツリして黙っていた。
アンタに降参。ウチの負けだね。
喧嘩した翌朝は、玄関からではなく、わざわざ台所へ行って言う。ラジオを聞きながら茶碗を洗っている背中に「行ってきまーす」
振り向いて「オッ、行ってらっしゃい」
気持ちいいなぁ。うれしいよ。本当に「ありがとう」
八尋 敏子さん(57歳/福岡県春日市)からの手紙
小百合ちゃん
初孫の小百合ちゃんへ
小百合ちゃん産まれてきてくれて、ありがとう。10年後も逢いたいよ。そして「ありがとう」を言います。20年後も逢いたいよ。そして「ありがとう。」と言います。小百合ちゃん良いお名前ですね。パパとママがつけてくれました。小百合ちゃん生まれてきてくれてありがとう。婆ちゃんの初孫です。婆ちゃんはとっても嬉しかったです。あなたを産む時貴女のママは19歳でした。婆ちゃんは本当に驚きました。でもね。小百合のママは命をとても大事に、大切に考えてくれました。「折角神様から授かった小さな命を自らの手で葬る様な事は出来ない」ときっぱりと言われました。そして小百合のお母さんの強い強い意志の先に新しい命が芽生え、新しい命が誕生したのです。すなわち小百合ちゃんがこの世に生を受けたのです。つわりがとてもひどくてお水も飲めなくて5キロも痩せてしまいました。でも頑張って、小百合ちゃんが産まれました。3900グラムの大きな女の赤ちゃんでした。喜びもつかの間、お医者様にとても残酷な言葉を告げられました。「心臓に穴が開いています。」頭をガーンと殴られた様な衝撃とは、このようなことを言うのですね。きっと。「ミルクを戻したりして、そのまま命を…。」残酷な言葉とはうらはらに小百合ちゃんは天使の微笑みで皆をいやしてくれるのです。つぶらなお目々、小さなお鼻、小さな口もと、甘ずっぱいような赤ちゃんの匂い。「この子が居なくなるはずがない。」私は確信しました。季節は流れアッという間に手術の日が近づいて参りました。こんなにも、こんなにも、一心不乱にお祈りしたことはかつてありませんでした。お陰様にて皆様に助けて頂いて手術は成功しました。「オリンピックにも出られますよ。」と執刀医の先生のお言葉です。「ばんさい」と心の中で叫んでいました。入院中は諸先生方はじめ、やさしい看護師さん、こども病院の皆々様。全ての皆様にありがとうございます。そして目に見えない何か大きな力のあるものに感謝の気持ちでいっぱいです。一番頑張ってくれた小百合ちゃんにありがとう!! 少女の日の輝くばかりの本物の夢に向かって、頑張れ。頑張れ。先月の4歳のたんじょうび楽しかったね。家族皆一緒だよ!! 婆ちゃんより
中村 ルミ子さん(57歳/福岡県宗像市)からの手紙
ばあちゃんへ
「ばあちゃんへ」
「ばあちゃん、おはよう!」。また一日が始まったよ。今日も楽しく過ごそうね。
私のお姑さんだけど、親しみを込めて「ばあちゃん」と呼ばせてもらってるよ。(本当はイヤかな?)
介護される生活に慣れた? 昨年の2月に脳梗塞を患って右半身に障害が残り、人の手を借りないと生活できなくなったショックは、ばあちゃんが一番大きかったはずだよね。
先に、あの世に逝っているじいちゃんに、「早く迎えにきてよ…」と泣いていたばあちゃん。リハビリがきつくて、「早く家に帰りたい。」と泣いたことも覚えてる?
6月、待ちに待った退院ですごく喜んだね。本当のことを言うと、受け入れ側の私たちは、今から始まる介護生活に身の引き締まる思いだったんよ。介護初心者の私たちは、いろいろ失敗したね。でも、ばあちゃんはその度に「アハハ…」と笑って許してくれる。
私がホームヘルパーの資格を取りに行った時、実は、素敵な先生に教えてもらったんだよ。先生の優しい手の感触が今も忘れられず、私にとって最高の目標になったの。努力するからね。
ばあちゃんが入院中に外泊で帰って来た時、利き腕ではない左手で懸命に食べていたね。でも、時間はどうしてもかかってしまう。その時、「自分がゆったりとした気持ちを持たないと、お世話できないなー」と思ったの。それで、ばあちゃんと接する時は、ばあちゃんモードに切り替えるようにしたら、自分の気持ちが楽になったよ。
社会人から専業主婦にならざるを得なかった私は、本当はジレンマもあったの。でも、お世話をしていくうちに、一人の女性に寄り添って、少しでも快適に過ごせるようにお手伝いできるなんて素敵なことじゃないって、思えるようになったんだよ。
私たち家族の合言葉は「楽しい介護」。自称「シーズンフリーター」の娘も、自分で判断して、仕事先から荷物をまとめて帰ってきたね。「ばあちゃんに癒やされる。」と言って、明るく介護してくれる。今まで家にいることの少なかった娘が、こうしてずうっといてくれるのも、ばあちゃんのお陰だよ。後になって、今のこの時がとてもいい時間だったと、きっと思えるような気がする。ありがとう、ばあちゃん。
最近体調がいいので、「100歳」と言う言葉がよく出てくるね。現在93歳と57歳のコンビだけど、いつも「ありがとう」と言ってくれるばあちゃん、私も「100」まで付き合うからね。
ペンネーム:レオさん(58歳/福岡市南区)からの手紙
私の家族(結婚して家庭を持った長女の家族・次女・妻)私の親類 私をとりまく多くの方々
拝啓 昨年のクリスマスに娘の次女からフワフワした暖かそうな耳カバーが届きました。使用するにはもったいない気がして、タンスの上に大事に置いておりました。「今日は寒かったね。使っている? 耳カバー」「うん、ありがとう、使っているよ。」遠く離れた受話器の向こうからやさしい娘のことばに、そう答えてしまい、胸が熱くなりました。同じ日長女の子供に、庭の木に取り付けたイルミネーションの映像をテレビ付き携帯電話で送信しました。映っているはずであろう映像が映らず、「おじいちゃん 電話 真っ黒だよ。映ってないよ。寒いからおうちに入らんネ。かぜ引くよ。今度、見に行くからネ。かぜ引かんごとネ。」まだ3歳7ヵ月だというのに…。暖かい心のこもった孫の声にまたしても胸が熱くなりました。いろんな悲しい出来事、怒りを覚えるような出来事のある昨今、彼等の素直で温かい声に、遠く離れていても家族の絆は消えていない、そう思う私は幸せ者だと通感したものです。
60に近い小生の歩んで来た道はある事を境に娘たちと離ればなれの生活を余儀なくされました。小生の至らなさと、反省してそれは遅いことでした。
小生農家に育ちました。子供のころおもちゃらしき物も購入してもらえず兄弟や近所の子らと自分たちで竹とんぼや竹馬等々、遊び道具を作って遅くまで遊び畑から帰って来る両親を待ったものです。両親や先生方などからよくしかられもしましたが、そこそこ手伝いもしたように思います。それらのことは、いい思い出となり、今にして考えると人生にも役立つことばかりのようにも感じられます。小生の考えが少し古めかしいのでしょうか? それとも現代が多忙な世の中なのでしょうか? 家族の団らんが少なくなりつつあるのではと思います。二人の子を持つ長女は保育士として励み、次女は会社の事務員として一人生活をしております。それぞれに忙しい毎日ではありますが、時間の許す限り、お互いに出会えた時は団らんを大切にしております。そして今日まで、それぞれがそれぞれに苦難の道をのりこえながら生活している状況ですが、それは人々との出会いがあり、人々との団らんがあるからだと信じてやまないのです。
小生には金に縁がないのですが人々ととの心のつながりの縁はお陰様で、ありがたいことです。生きとし生ける間は大事にしたいものです。この地で私を仲間として受け入れて下さればこそ、この土地で生活できるのです。
小生、手紙という手紙を書いたことがほとんどと言っていいくらい書いたことがありません。そばに居る妻にでさえ。「ありがとうの手紙」と題された記念事業のおかげで、私の家族を含め、私を取りまいて下さってる皆様に「ありがとうございます」と記したいのです。
皆様、本当にありがとうございます。敬具
熊谷 貴美子さん(59歳/福岡市早良区)からの手紙
中村 友子
「友子さん、ありがとう」
娘の25歳の誕生日に、友子さんが来てくれた。
「元気なころの朝ちゃんの写真を病室に飾ってください」と差し出された写真から、わたしはしばらく目が離せなかった。友子さんと娘のツーショット。日付は94年9月とある。「中学1年の植物園への遠足のときのです」と友子さんは笑顔で説明してくれる。
背の高い友子さんと低い娘が、噴水を前にカメラを向いて真っ直ぐ立っている。9月の強い日差しがふたりの短い前髪の影を額に写している。
友子さんは微笑み、娘は笑いがはじける直前の膨らんだほっぺたをみせて、立っている。
友子さんと娘は中学の同級生、同じバスケット部。友子さんはキャプテン。娘がバスケット部に入るといったときには、わたしは驚いた。強いボールが飛んできたら、小柄な娘はぶっ飛ぶのではないかと心配したものだ。
「けっこう負けん気強かったですからね。部活で主張することは主張してましたよ…」と、友子さんが話してくれる。
話を聞きながら、キャプテンの友子さんがいたから娘は入部したのかもしれない、と思った。
娘のことをずっと忘れず、毎年娘の誕生日のころひょっこり病室に現れる友子さん。短いヘアカットに男っぽいパンツ姿で現れた高校生のとき。油山の麓にある大学から真直ぐ市街地を走り抜け博多湾に面する病院までバイクで現れた大学生のとき。すっかり素敵な大人の雰囲気をまとまって現れる今。
わたしは娘の成長を見るような気がして、心がおどる。友子さんと話していると、娘が笑い声をたて動き回っていた確かな日々が目の前に立ち上がってくる。
同級だった中学2年の夏休み、娘は脊柱側弯症の手術を受けた。9月の韓国への修学旅行に、みんなと行くのを楽しみにしていた。手術をしたら、娘を悩ます背中や腰の痛みがなくなると信じて。
長い手術の一日、その夕刻家族の前に戻ってきたときには、娘は無酸素脳症に陥っていた。その時から生命との過酷な闘いが続いた。繰り返す高熱と肺炎、切れ間ない痰が何年も娘を苦しめた。
人工呼吸器のたすけをかり、穏やかな顔をみせるようになった今も、立ち上がることはおろかおしゃべりすることもかなわない。
病室で娘の手を握り「朝ちゃん」と声をかけてくれる友子さんに、娘は心なしか嬉しそうな瞳をかえす。
今年の友子さんの年賀状には「看護師をめざし勉強しています」とあった。きっと笑顔の素敵な看護師さんになってくれることだろう。
がんばれ、友子さん。そしてありがとう。
成清 ひろ子さん(59歳/福岡県筑紫野市)からの手紙
主人 成清 憲二
前略
貴方と、パートナーになって36年。初めて、お手紙差し上げます。今年、2月末で定年ですね。永い間ご苦労様でした。42年間、病気一つせず働き続け、家族を見守ってくれて本当に、「有りがとう」。そしてお疲れ様でした。心から深く感謝し、お礼申し上げます。
朝早くから、夜遅くまで、仕事で頑張って、休みも、思うように取れず、家族共に、ゆっくり話も出来ない日々、でも子供たちも私も幸福でした。父親として主人として、一生懸命。私も「家族の健康」が、何よりと思いつつ、食事の用意、毎日充実した日を送ってまいりました。
今、団魂の世代の、定年を迎えいろんな事を思い出されます。
子供の受験、就職、結婚とたくさん有りましたね。
大変な時期には、いろんな人に支えられてきました。今では、懐しく思い出され、年月の、たつのは早いものです。
最近では、孫の生長が楽しみで、話題が一杯、貴方がいたから、私も頑張って来れたと、思い、感謝してます。
謹しんで「有りがとう」と、手紙で、言いたいです。ちょっと恥ずかしいけど。
3月2日に、遠方より子供たちが、帰って、お父さんの、「退職」と「還暦」、お祝いをしてくれるそうです。
本当に、良かったですね。
「おめでとう ございます」。私、大変うれしく思います。
3月から、第二の人生が始まります。今迄、出来なかった事、好きな事、欲ばかり出て、まだ何も考えてない貴方、ゆっくり考えて、人生楽しんでほしいです。いつまでも元気で、体に気を付けて過して下さい。
私もいっしょに、仲よく人生歩いて、行きたいと、思います。今後共宜しく、お願い致します。お互い思いやりをもって、頑張っていきましょう。
まずは心から御礼、まで申し上げます。
2月17日
ひろ子
憲二様
親愛なる父ちゃんへ
ねぇ、言っていい?
あなたが倒れて15年、寝たきりになって8年、私ね、最初のうちは、あなたを恨みました。そして、私ぐらい不幸な女はいないと思っていました。
だって、酒飲んで、パチンコ、マージャン、ボウリングをして、女遊びはわからんけど、一人でよかごとして、病気で倒れて。何もかも私に押しつけて介護もさせて…。
本当にこんな男の嫁に、ならにゃよかったと思いました。
ところが
いつ頃からか、おむつを替えても、着替えをさせても、"ありがとう!御苦労さん!!"と言ってくれるようになり、"母ちゃんが一番好き!!"と言うようになりましたね。
亭主関白のあなたがですよ。
頭の中身が半分しかないあなたが"今度生まれ変わっても母ちゃんと結婚する!!"と言った時、"私は嫌よ。お金持ちで、病気しない男の人と結婚する!!"と言いながら、涙が溢れました。
本当は、あなたが一番かわいそう。私は元気でいる分、幸せと分かっていたんです。元気で介護出来る幸せを感じていたんです。
いつも、いつも"ありがとう!!"と言ってくれて、こちらこそありがとう!
あなたのありがとうは、誰のありがとうより嬉しいです。これからも孫の成長を楽しみに仲良く暮らしましょうね。
生まれ変わっても一緒ですよ。
紀子
弘喜様
三池 百合子さん(59歳/佐賀県北方町)からの手紙
田原智子さん
智子ちゃん。先日は電話ありがとう。
風邪をひいていたようだったけど治りましたか? 智子ちゃんがちいさい頃から「お母さんの宝ものは、智子ちゃん」ってよく言っていた頃も風邪をひいて病院通いも多かったね。小学生の頃も熱まであって、よく学校を休んでいたね。それに、いじめにもあっていたけど、お母さんは嫌がる智子ちゃんを学校に行かせていました。今ほどにいじめで騒がれてもいなかったのと、お母さんは普段から智子ちゃんに対して甘やかしていたから、なおさらいじめなんかに負けないで強い子になってほしかった。五円ハゲまで出来て辛かったでしょう。御免なさい。可哀相なことをしたと今でも思っています。でも智子ちゃんは負けなかったね。いじめに勝ってスクスクと育ってくれてありがとう。今さっき「あなたがいてくれてよかった」という共同出版で出した詩集を改めて読んで、ごめんねありがとう!!って書いていたあの言葉が心に響き磨かれるようでした。暮れにお母さんがちょうど忙しくて時間に追われ仕事がさばけなくてあせっていた最中に智子ちゃんからの電話だったのでツイ口走ってしまった。「お正月の準備どころじゃなかよ。もうお母さんは疲れた。正月はお父さんにまかせるけん、お母さんは何もせんよ。」と言ってしまって、言わなきゃよかった。そう思いながら気になっていました。28日までには仕事もさばけ、掃除の方も網戸や窓、冷蔵庫、茶だんすなど済ませていたからかぶっているところもふき掃除もして、掃除機をかけていたら、智子ちゃんからの宅配便が届きました。ダンボール箱にはりんごの絵が描いてあったので、りんごかあ、お父さんがよろこぶばい!! そう思いながら開けてみたら広告紙が載せられ、その下に鏡もちが見えていて、しめ縄、昆布、するめ、そば つるしがき、お屠蘇、お正月に必要な物やきな粉、梅、野菜、七草がゆの袋入りまで。おまけに宝くじと励ましの手紙までいただいて、有難涙が、大粒の涙がダイアモンドよりも美しい涙だったと思います。ドオッとお母さんのチョットだけまだ張りのある頬を濡らしていました。あの時は、送っていただいて有難うございました。あっ!! そうだ思い出した。6年位前にお正月2日だったっけお父さんと姉ちゃんと3人で智子ちゃんのところに行った時だった。久しぶりに4人そろって喋るだけ喋って食べて満足して夕方過ぎ頃、お父さんが「そろそろ帰るぞォ。」のひと声で帰ろうとしていると智子ちゃんが可愛らしいピンクの封筒をくれて「これ使って。福岡の専門学校に行かせてくれたお礼、お母さんにも姉ちゃんにもお金使わせたけん」と、あの頃は、お父さんが入院したりで、お金に苦労させられて大変な時だったのを忘れていなかったのね。あの時嬉しくて涙が溢れていた。みんながいる前で、泣くのがテレくさくて、涙目用のワイパーがあればいいのにって思った位でした。智子ちゃん。智子ちゃんがお母さんの娘であってありがとう。お母さんは幸せです。そして智子ちゃんがいるから頑張って仕事も出来るし、生きられます。
今日は、この位にしてペンを置きます。「ありがとうの手紙」を書きました。
幸せな母 百合子より
宝もの
智子ちゃんへ
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