ありがとうプロジェクト
ありがとうの手紙作品紹介

小中学生 20歳以下 20代 30代 40代 50代 60代 70歳以上
40代の方からの手紙
柴田 里美さん(40歳/長崎県佐世保市)からの手紙
“9・11ワールドトレードセンターへ突っ込んだ飛行機に乗っていたUAのクルー達へ”
 2001年9月11日、私はあなたたちと同じニューヨークにいた。

 前日、JFK空港から成田へ発つはずだったわたしは空港内で突然胸騒ぎに似た激しい動悸を覚え、近くの病院へ緊急入院していた。

 私があなたたちに起きたことを知ったのは事件から3日後のことだった。

 「ニューヨークでテロがあって、数千人がなくなったのよ。知ってる?」と黒人の看護師が言った。私はテレビであなたたちが乗った飛行機が青空から現われ、森のようにそびえ立つビル群のなかでもひときわ高く美しいビルへと突っ込んでいく情景を何度も見た。

 当時、私もあなたたちと同じユナイテッド航空のフライトアテンダントだった。9・11のあの日の朝、私はなんともいえない不安のなかでベッドにいた。

 それからしばらくたって、私は会社の組合の新聞であなたたちひとりひとりの写真を目にした。あなたが素敵なお母さんだったこと、お父さんの自慢のかわいらしい女の子だったことを知った。あなたが偶然その便に乗ってしまったこと、恋人と同じ便に乗務するためにスケジュールを変更したらテロに遭ってしまったことなどを知った。会社の同僚はあなたたちを“みんなの誇り”“決して忘れはしない”と書いた。私はそれからの言葉を深く心に刻んだ。

 あれから私はこの世界からテロがなくなる日を夢見ている。テロのない平和な社会を私たちが築き上げなければならないと思う。

 あなたたちの乗った飛行機とその背景の青さが今でも目に焼き付いており、私はその澄みきった空の青さの分だけよけいに悲しくなってくる。けれど、あなたたちはいつも誇りと勇気を私に与えてくれる。

 ありがとう、あなたたち。私はいつもあなたたちに励まされる。私はあなたたちの死を決して無駄にしない生き方をしてゆきたいと思っている。
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村山 美紀さん(40歳/福岡県みやま市)からの手紙
お姑さんの村山千鶴子様へ
最愛のお母ちゃまへ

 私が山川にお嫁に来て4年がたちました。

 時間は、早い物です。すっかりこの町にも慣れて、近所の皆さんにも可愛がってもらい、楽しい毎日です。何より嬉しいのは、お母ちゃまと一緒に過ごせる事です。

 何も出来ない、しない、最低、最悪のお嫁ちゃんだよね。

 一番動くのが口だもん…ね。アハハ

 でも、お母ちゃまは、誰よりも愛を注いでくれて、大切にしてくれて、心から感謝しているんですよ…お母ちゃま有難うございます。

 暖かく照らしてくれるお母ちゃまは、まるで太陽だね。ちょっと眩し過ぎるかなぁ?

 実の母には、子供として何も出来ないまま、遠くに行ってしまいました。でも、そのおかげで、今、お母ちゃまと買い物したり、旅行したり、二人でお洒落して、女同士で素敵な時間を送れてますよね。お母ちゃま

 不満は、一杯あるよね。言いたい事あるよね。お母ちゃま

 でも、何時も、私には、笑顔で答えてくれて有難うございます。

 自分らしく、心で、ぶつかっていいんですからね。お母ちゃま

 いつでも私は、戦いますから。負けません…心配なく…どんどん攻めて下さい。

 お互いに、傷つきながらでもいいじゃん…本気でぶつかれば…二人は、必ずお互いが見えて思いやりの気持ちが自然に溢れて来るよ。お母ちゃま

 私は、これからも、我儘いって…困らせて…たくさん甘えちゃいますから…ゆっくりなんて、まだまだできませんよ…お母ちゃま

 しっかり、働いてね。頑張ってさぁ…旅行に・お食事に・お買い物に連れて行ってよ。楽しみに待っているからね。お母ちゃま

 その時には、たくさんの幸せをプレゼントしちゃいますからね…約束

 指きりげんまん…うそつかないよ。お母ちゃま

 さぁ…これからも又どんな時間を過ごせるか…ワクワクだね。

 だから自分の体は、自分がしっかり守らないといけないよ。お母ちゃま

 それが一番大事なお母ちゃまの役目だよ…忘れないでね…指きりね。お母ちゃまが私のお姑ちゃんになってくれて…本当に良かった。

 私もお母ちゃまに「お嫁ちゃんと最後まで過ごせて良かったよ。」って言って貰える事を目標に日々努力・努力して行くよ。「やぁぞ〜」お母ちゃま

 今は駄目な私ですが未来を信じて、宜しく頼みましたから・・お母ちゃま

 本当に一杯の幸せ有難うございます。 我儘なお嫁ちゃんより
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西田 小百合さん(40歳/福岡県柳川市)からの手紙
あなたへ
あなたへ

 一枚の見合い写真がきっかけで、ちょうど20年前にあなたと出逢いましたね。小さな喫茶店。覚えてますか。時折、ぽつりと言葉を交わすだけの「おとなしい人」という第一印象。あなたは私の事、どう感じてましたか。

 半年後、結婚。私はまだ20歳になったばかり。大家族で毎日戦争、1ヵ月後に新居へ、新婚生活もないまま、寿司店の女将へ。私は商売の何もわからず、ただあなたが教えてくれる事を一生懸命、勉強して従業員も雇って、未知の世界でひたすらあなたに付いてがんばった。

 1年後、第一子、2年後、第二子、店の事、家庭の事、毎日戦争みたいだったね。軌道に乗った頃、あなたは、週4日程、夜になると飲みに出かけてたね。私は、その度に焼きもきして、寝れず心配ばかり。

 「何も心配するな」いつもその言葉。

 私は何も言えず、態度に出て、あなたからいつも叱られて泣いた事も、6年目に第三子。念願の女の子。店も順調で体も働きざかりだったね。その頃、私は仕事、家庭の母役、あなたの妻役、完璧にやりこなせてた気がしてた。あなたが私の事気遣ってくれる様になったから。休みの日にゴルフを教えてくれたり、買い物に付き合ってくれたり。

 一緒の趣味を持てば、互いに話す事が多くなり、私はうれしかった。

 そして今、第二の寿司店。移転して、あなたの希望通りの大きな店。人手も増やし、日々楽しく、時にはきつく。

 あなたとの20年。商売の善しあし、人間の善しあし世間の事、色々、あなたが私を大人にしてくれた。今つくづく感じてます。

 あの一枚の写真、懐かしいな。

 あなたと出逢えて、本当に幸せになりました。

 あなた、ありがとう。

 これからもよろしくね。
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坂田 子穗さん(41歳/福岡県嘉麻市)からの手紙
夫・坂田敏宏(さかたとしひろ)さんへ(3年前に他界。享年39歳)
 あれから3年。

 こんなに長い年月を別々に過ごしたのは初めてですね。

 どうしていますか。元気ですか?

 賢志朗(けんしろう)は5年生、旭之輔(こうのすけ)だって2年生です。ちょっとした仕草や言葉遣いが、ふとした時に、あなたそっくりで、どきりとします。

 あなたが今、この子たちを見たならば、きっと驚いて、

 大きくなった子どもたちを無茶苦茶に高い高いするでしょう。あなたが逝ってから3年。

 私は、「時間」などという漠然としたものが、決して癒やしてくれることのない悲しみがあることを知りました。

 一人で子育てをすることの心細さ、喜びが半減し、悲しみは倍増するという辛さも知りました。

 それでも、あなたと共に過ごした9年間が、今の私を支えてくれています。

 「がん」という大きな不幸の渦中にあっても、小さな幸せを見つけ、生きていることに感謝していたあなた。何よりも家族を思い、精一杯の愛の形を遺そうとしたあなた。

 今、あなたのためにできることは、私たち家族が仲良く暮らしていくこと。いつも笑顔であなたに寄り添い、小さな幸せをかみしめながら生きていくこと。

 そして…。あなたがあなたの人生を精一杯生き抜いたように、私も私の人生を精一杯生き抜いてみようと思います。

 どうしようもなく寂しいけれど、あなたに誇れるような人生を歩んでいこうと思います。そしたら、どうか誉めて下さいね。

 「よく、がんばった。」

 って。そして、何十年という時間の隙間を埋めるように、しっかりと抱きしめて下さいね。私は、あなたを誇りに思います。

 あなたの妻であったことを誇りに思います。

 ありがとう。

 平成19年 3月 1日 (あなたが旅立った日に。)

 子穗(みほ)

 天国のあなたへ
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入江 佐智子さん(42歳/福岡市南区)からの手紙
モンゴルの少女 ナラ
「ありがとう、ナラ」

 朝から夜暗くなるまで、あなたは働きずくめだ。上手に馬を乗りこなし放牧しているヤギや牛の世話をする。仕事慣れした器用な手つきで乳搾りに冬の間のチーズ作り。身体より大きなカゴを背負って燃料となる馬糞集め。

 モンゴルの大平原に住む8歳の少女ナラ。赤いほっぺのあなたは、病気の両親の代わりに氷点下30度の極寒の地でクルクルと良く働く。暖冬の日本でも冬の風は身を切るようなのに、外で乳搾りをするあなたの小さな手を温めるのは、袖を伸ばした中に入れるしかない。それなのにいつも笑顔で、足を引きずって歩く父に「足痛むでしょう、無理しないで。」と、かける言葉が春風のように温かい。

 あなたの一番の楽しみは、家事の終わった後、寝る前の1時間に読む一冊の教科書との時間ですね。ボロボロになるまで読まれたその本を慈しむようにページをめくる。年に2回2週間だけ開かれる移動教室の教科書です。ナラの家は大切な働き手である彼女を学校に通わせる余裕がない。町の市場に出かけたナラが遠くから憧れを持って眺める建物、それは学校なのだ。学校に行きたくても行けない。

 『学校は誰でも行き、イヤでも勉強をさせられる所。』と、日本に住む私たちはそう思って過ごす間に、自然と読み書き計算が出来るようになった。でも世界ではその当たり前が通用しない。5人に1人の割合で「学校に行きたくても行けない子ども」の存在がある。

 「お医者さんになりたいの。」そう夢を語るあなたの瞳はキラキラと輝いて美しい。勉強出来る楽しさ喜びを、テレビ画面のあなたが気付かせてくれた。そう、いろんな事を学ぶっておもしろいんだ! 勉強は子どもだけがするものじゃなくて、一生学びたい時に学べば良い。日本のかつて子どもだった人たちよ。日本の「学校に行けるのに不登校の子ども」よ。

 ナラ、あなたは今の日本人が忘れかけていた学ぶ喜びを教えてくれた。ありがとう!
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平田 悦子さん(42歳/福岡市博多区)からの手紙
平田 トシヱ お義母さん
 お義母さん! 先日買ってこられた花柄の杖、とっても素敵ですよ。年末の忙しい中、無理をし過ぎたからでしょうか。

 膝の痛みは、まだ治らないようですね。

 とうとう、自分から買い求めて使う決心をされた様子に、パパも孫たちもとっても心配しています。

 3人の息子を立派に育てあげ、嫁たちみんなに優しい心配りを忘れないお義母さん。畑で孫たちが喜ぶ野菜や芋、巨大なスイカまで作りあげる頑張り屋のお義母さん。

 何事も「やってかましい!!」と人生前向き姿勢のお義母さん。

 私も長男の嫁として嫁いで19年になりました。

 お見合いの席上、緊張で固まってしまった私に優しく「大丈夫!」と声をかけて下さったこと、覚えてありますか。

 初めての子供を授かって報告する夫と私に「よかった、よかった」と満面の笑顔で義父といっしょに喜んで下さったあの笑顔、私は忘れられません。それなのに、それから10ヵ月を満たさずして早産で産まれた我が子はわずか1050g。極小未熟児で保育器での入院を余儀なくされてしまった愛娘。我が子への申し訳なさと情けない母親・嫁としての自分に涙が尽きず、顔を上げることもできなかった日々。

 そんな中、入院中の愛娘を残しての私だけの退院の朝、ピンクのカーネーションの型をしたとてもおしゃれなケーキを買って持って来て下さいましたよね。

 「はじめての母の日、おめでとう!!」あの時、はじめて私は「母」なんだと覚悟ができました。

 「新米ママさん、ありがとうね」っと照れくさそうに声をかけてくれた夫の優しさ。お義母さんの息子さんは、本当に優しくすてきなだんな様です。

 その後、小さく産まれた愛娘に障害があることがわかってなかなか言いだせずにいた私たちに「やってかましい!!」と励まして下さったあの時。お義父さん、お義母さん方に支えられて新米ママは何事にもめげることなく、お義母さんを見習って「やってかましい」精神をかかげてとにかく子育て一直線。気づけば3人の子どものママになって肝っ玉母さんになっていました。

 さあ、今度は私が母を支えるぞー!!っと思った矢先、この私が手術をうけることになってしまいました。

 もうこれ以上、迷惑をかけることはできない、そう思う私の背中をぽんとおしてくれたお義母さん。

 私が入院すれば、きっと孫たちの食事の世話や学校の通学の送迎などがのしかかってきます。あの時、私以上に母には不安な思いが襲いかかっていたことと思います。できの悪い不安げな嫁の背中を軽く押す。そんな母にただただ申し訳ない気持ちと感謝の気持ちで涙があふれました。

 今、私は10日後の手術に向けて検査入院しています。外泊許可をもらった日、家では、ほっぺたにお絵かきをして私を笑わせる長女。ハートの赤いお守りを一針一針ぬって作ってくれた次女。妙にはしゃいでおしゃべりをする末っ子の息子。そしてあったかい夕食を作って待っていて下さったお義母さん。

 いつか必ず私が杖になります。花柄とはいきませんが、これから先支えあって生きていければ…。「やってかまします!」私は胸をはって覚悟を決めました。だから今しばらくその杖で我慢していて下さい。私が元気になるまで。

 いっぱいご迷惑かけてごめんなさい。そしていろいろと本当にありがとうございました。
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岩本 玲子さん(43歳/福岡県春日市)からの手紙
長女 悠(はるか)
 悠(はるか)へ、ありがとう

 いつも母さんの白髪探しをしてくれてありがとう。悠が何歳の時からだったのか、もう覚えていないけど、ずっとありがとう。

 白髪をみつけるとすぐに抜かずにはおれない母さんを、手伝ってくれてありがとう。

 あなたがうちで暇そうにしているのを見計らって、「悠、お願い。」と母さんが言うと、あなたは必ず決まって、「いいよ。」と軽い返事をしてくれますよね。

 何も説明することなく、ただ「お願い」と言うだけで、ぱっとわかってくれるのは、悠だけ。その「阿吽の呼吸」が、母さんはとてもとても、嬉しくて、大好きで、わざと「お願い」しか言わずに、あなたの返事を待っていたんです。あなたは、その母さんのささやかな期待を一度も裏切らず「いいよ」と返してくれました。

 それから、毛抜きを持って来て、悠はソファに膝を開いて座り、母さんはその膝の中に自分の頭を納める様に、ソファを背もたれにして、床に座り、準備完了。

 母さんが自分では見れない後頭部を中心に、悠が白髪を見つけては、抜いてくれました。

 最初の頃は、お茶碗洗いと同様に、きっと、お手伝い感覚でやってくれていたんでしょうね。白髪を見つける事が面白くて、ニコニコしてやってくれてましたよね。

 悠が小さい頃は、まだ母さんも若くて白髪も少なかったし、なかなか見つからないと、あなたもちょっと不満げで、「もうなかよーかあさーん。」と、楽しみがすぐ終ってしまうのが、つまらないような声で、そう言ってたよね。覚えてる?

 そうやって、悠の膝の中に体を委ねている時間は、母さんにとって何ものにも代え難い大切な大切な時間です。まさに「至福の時」。まさに「癒やしの時」です。娘に癒やされるなんて、本当は逆じゃなきゃダメなのにね。

 最初は、ただ白髪を探してもらう事が、目的だったのに、いつの間にか、その時間を過ごすことが、目的に変わっていったのかもしれません。

 あなたがまるで美容師さんのように母さんの髪に触れている時、母さんは自分の子どもの頃をいつも思い出していました。

 もう、ずっとずっと昔。

 母さんが保育園のころ、今、この光景と同じ中にいました。

 保育園から帰ると、毛抜きを持って、お母さん(あなたの今のおばあちゃん)の背中に回り、「お母さん、白髪探ししてやるけんね。」といって、必死に白いものを、見つけては抜き、自慢げに、それをお母さんに見せては、「うわぁー玲ちゃんすごい、ありがとうね。」と言ってもらいたくて、辺りが暗くなる迄、続けていた、ずっと。

 白髪が見つからないと、もう褒めてもらえなくなりそうで、何だか悲しい気持ちになって、あなたと同じように、つまんない声で、「もう、なかよ。」と、言っていたものです。あなたとそっくりでしょ。

 白髪探しの時はいつも、お母さんは、近くの原っぱから採ってきた数珠玉を、余りぎれで作った小さい袋に詰めて、お手玉を縫っていました。そのお手玉が、白髪探しのご褒美でした。

 40年も前の母さんの大好きな思い出の一場面。あの時と同じ時間が、今ここに、悠と母さんの間に流れている、なんて幸せなんだろうとしみじみ噛み締めていました。

 でも、母さんもだんだんと、本物のおばさんになってきて、それ相当に、白髪も増えてきたんで、悠の白髪探しの手間もかかるようになってきましたね。

 ちょっと前から、本当は、気づいてたんです、母さん。もっと、時間がかかるはずなのに、意外と早目に終わってしまう事。そして、その理由。

 きっと、抜いても抜いても手に負えない程白髪が増えてしまっているから、ある程度のところで「はい、もう、終わりかな。」と、言ってくれている事。

 「もう、多すぎて抜ききらん。」とは、絶対言わない悠の優しさだってことに、母さんは気がついてました。

 だって、母さんも自分で鏡をみると、中の方に無数の短い白髪が顔を出し始めているのに、気がついていたから。

 ありがとう、ね。

 この大切な、大好きな時間がもうなくなってしまうのは、とてもとても寂しいけれど、白髪探しは卒業します。

 あなたも高校生になり、勉強に部活にと朝も晩も忙しく、母さんの白髪探しに付き合っている時間はほとんどない…よね。「悠、お願い。」となかなか言い出せない程、あなたと一緒に居間にいる時間は、ぐんと減ってしまいましたよね。高校生だから仕方ないけど、家族の時間が、それぞればらばらになってしまって寂しい…ということは、取りも直さず、大人になってきたということなんですよね。だから本当は嬉しいことなんだよね。

 これまで白髪探しに付き合ってくれてありがとう。

 癒やしの時間を与えてくれてありがとう。

 思い出の中に連れていってくれてありがとう。

 さぁ、これからは、悠の優しさに頼らずに母さんは、子離れをしなくっちゃ…ね。あなたが大人になってゆく姿を、寂しがらずにじっと見守れるように、母さんもおとなになる。

 だから白髪探しはもういいよ。

 ホントに、ありがとう、悠。

 2007.2.6 母さんより。
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門口 竜三さん(43歳/北九州市八幡西区)からの手紙
妻(美由起)
美由起へ

 結婚していつのまにか21年たちましたね、僕が21歳、美由起が19歳。成人式の時にはお腹に赤ちゃんがいたよね。長男、次男、三男と。24歳のときには子供が3人、そのころの僕は仕事ばかりで、家庭の事はすべて美由起に頼ってましたね。

 今思うと、なぜあのとき、素直にありがとう…が、言えなかったんだろ〜? 家族の写真を撮っても、ホームビデオを映しても、笑った顔が僕にはまったくありませんでした。

 16歳で理容師を目指し、修業の身でありながら子供ができ、迷う事なく「赤ちゃん生んで」っと…僕が言ったのを覚えてますか? 自分が早く仕事を覚えたいばかりに、早く自分の店をもちたいばかりに、一番大事な事に、僕は気がつけませんでした「ゴメンナサイ」。

 家事をすべて美由起がやってくれたおかげで、28歳で念願の、自分のお店をオープンする事ができ、本当にあのときは嬉しかったです。オープンと同時に沢山のお客様が来店していただいたよね、お店が忙しくなると僕が、2階にいるあなたに「美由起〜美由起〜って」忙しいからお店に出てよ〜って。

 一息ついたとき、もしかしたら毎日のように「私はいつになったら自分の時間がもてるんだろう」って思ったと思います。

 今では3人の息子も成長し、沢山の方に恵まれ、僕の好きなようにさせてくれた美由起に、すごく感謝しています。

 本当に忙しい思いばかりさせましたね。(今も変わらないかも)笑笑…

 ちょうど4年前ぐらいでしたかね、美由起がカウンセリングを受け、半年後には「私カウンセラーになりたいからお店を手伝うのはあと1年にしたい」って言ったのは。あのときは本当に「ドキッ」としました。なんだか淋しいような、複雑な気持ちでした。僕は僕で意地をはって「それなら明日から店に出なくていいから」って言ったよね、自分で言いながら、すごく不安になったのを、今でも覚えてます。僕にとっては大きな節目だったかもしれません。

 お互いが本当に好きな事ができ、ともに成長し、今になっては美由起が、カウンセリングの勉強をする中で、一番ためになっているのは、僕自身です。

 本当に、いろんな事を気がつかせてくれて、心の底から「ありがとう」。
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ペンネーム:案想路地(アンソロジー)さん(44歳/福岡市西区)からの手紙
光の向こうの君へ

 いつもいつも 君がいた いつもいつも 心の中 それだけで 元気になれたよ

 走り続けた青春の日々 ただひたすら前を向いて 何かをつかもうと 何度も手を伸ばしたよ つかみかけて逃げていったこともあった その度 悔しくて 自分に腹が立った けれども そこから逃げ出せない 自分が選んだ道だから 前に進むしかないこと 自分が一番知っていた

 いつもいつも 君がいた いつもいつも 心の中  それだけで 笑顔になれたよ

 思うようにいかなくて 何度も振り返りそうになっても  今この時を 精一杯生きようと もがき続けた日々 ただ必死だった その度 頬を 涙がながれて その涙を ぬぐうのも忘れていた 自分が信じた道だから 誰のせいでもないこと 自分が一番知っていた

 君を知ったのも 君と出会えたのも そんな時間の中に ふたり いたから 新しい季節が訪れて 街の景色が変わっても 忘れないよ 君といた その時間を その場所を

 途切れたままのメール さよならを言わないのは 君の最後の優しさだね 君との出会いに…ありがとう… 30分間のデート…ありがとう… 東京へ旅立つ君 もう会えないなんて思いたくない 君の夢 応援できる人でいるよ

 西日本新聞社企画推進部「ありがとうの手紙」プロジェクトチーム ご担当者様

 この手紙は、今年3月に高校を卒業する娘の気持ちを手紙にしたものです。代弁して母親が書いています。相手の方はきっと娘の気持ちを知らないまま、東京の大学へ進学されることでしょう。娘から事の成り行きを聞かされても、何もしてあげれない無力の親がいます。しかし、そうやって大人になっていくのでしょう。うれしいような、さみしいような気がします。せめて、匿名でもこの手紙が彼の目に止まる事があったらと思い応募させていただきました。 どうぞよろしくお願い致します。
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森下 裕代さん(44歳/福岡市南区)からの手紙
パパ
パパへ

 絵理が生まれてもうすぐ18年。結婚して19年になりますね。あの感動の日からもうそんなに経ったのかなぁって思う今日この頃です。色んなことがありましたね。絵理の耳が聞こえないってわかった時は、まさに天国から地獄へと突き落とされたような気持ちでした。

 どうしていいのかわからない毎日。『悪夢』なら早く覚めて欲しいと毎日祈りました。打ちひしがれながらも何とか立ち直り、でも、毎日絵理を『可愛い』と思う心のゆとりもなく、訓練に明け暮れ、家の中はおもちゃ箱をひっくり返した状態。ご飯の支度も出来てない事だって数え切れないほど…訓練が思うようにいかず、苛立ちと焦りと空しさの入り混じった険悪な空気の中、疲れて帰宅したパパは私のストレスを一身に浴び、怒りの矛先になっていましたね。

 そんな中でも私を気遣い受け止めてくれたパパ。今振り返って本当に心から感謝しています。パパがいなかったら、訓練も上手く行かず絵理は、あそこまで成長出来なかったかもしれない…私は絵理を産んでから心の底から『ありがとう』って言葉が言えたような気がします。1人では何も出来ない、大勢の人たちのお陰で今、生きてるんだって事を身にしみて感じたんです。今日この穏やかで幸せな生活があるのも、パパを始めみんなのお陰ですね。これからは昔の分まで家族孝行をしたいと思っています。と言いながらもまだまだ良妻賢母には程遠い私ですが、命ある限りお付き合いくださいね。
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堤 和秀さん(44歳/福岡市西区)からの手紙
 中学生の時、毎日お弁当を作ってくれてありがとう。その頃、お母さんは働いていたのに、出勤前の忙しい時間を割いて、一生懸命作ってくれていたことを覚えています。それなのに、私は、「このおかずは嫌だ」とか、「量が少ない」とか、文句ばかり言っていました。それでも、毎日黙々とお弁当を作ってくれましたね。今思うと、自分はなんて恩知らずだろうと思います。

 そんなある日、ランチジャーを買ってもらったけど、私は、普通の弁当箱のほうが良かったと思いました。なぜなら、ランチジャーはとても大きく、まだ中学生の小さな体にランチジャーを肩からかけて、満員電車に乗るのがとても恥ずかしかったからです。でも、昼休みに弁当のふたを開けると、ほかほかの温かいご飯と、温かいおかずと、温かい味噌汁が入っており、特に冬は体の芯から温まることができました。今思えば、それはお母さんの愛情だったのでしょう。それから、ランチジャーは私のお気に入りとなりました。

 高校生になると、体も大きくなり食欲も旺盛になって、お弁当を2食分作ってもらっていましたね。1食目は2時間目終了後の休み時間に食べました。いわゆる“早弁”です。2食目は、みんなと一緒に昼休みに食べました。お弁当を1食作るだけでも大変なのに、2食作るのはもっと大変だったろうと思います。私が大学生になって、一人暮らしを始めた時はほっとしたことでしょう。

 あれから、既に25年が経ちます。今でも時々お母さんが作ってくれたお弁当を思い出します。よく“おふくろの味”と言いますが、お母さんが作ってくれたお弁当が、私にとっての“おふくろの味”です。もう食べる機会はないと思いますが、できることならば、もう一度食べてみたいです。

 お母さんも今年で69歳になりますね。当時は恥ずかしくてとてもとても言えませんでしたが、今なら言えます。

 「お母さん、いつもお弁当を作ってくれてありがとう。とてもおいしかったです。」
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ペンネーム:淳子さん(45歳)からの手紙
夫(和昭)
 和昭さんに、手紙を書くのは、本当に久しぶりですね。ちょっと恥ずかしいけれど、今「ありがとう」の気持ちを伝えなければ、伝えそびれてしまいそうで、手紙を書いています。

  元気なだけが取り柄だった私の体に、早期とはいえない癌がみつかったのは、去年の6月のことでしたね。お医者様の話を聞けば聞くほど、悪いことしか考えられず、恐しくて、悲しくて、泣くしかなかった私に、和昭さんは、「大丈夫。手術してもらえばきっと良くなる。大丈夫に決まってる。」って、なんでもないように言ってくれました。そんな簡単なことではないと思いながらも、本当に助かるような気がしたものです。手術の日も麻酔がさめきれず、意識がはっきりしていない中で、「全部取れた(腫瘍が)?」と私が聞くと、「うん、取れたよ。全部取れたよ。」と明るい声で答えてくれたことだけを覚えています。本当は、そうではなかったけれど、あの声で、術後の痛さにも耐えることができたように思います。抗癌剤の治療が始まって、髪の毛がどんどん抜けていくのに耐えられずにいた時、「また生えて来るよ。」って軽く言う和昭さんに、腹が立って、「人ごとやけん、そう言えるとよ。」って、あたってしまったけど、和昭さんは、ああ言うしかなかったんだよね。見てる方が辛かっただろうと、今なら思います。入院している間、毎日病院に来てくれました。一年中で一番忙しく、体もきつい時期だとわかっていたから、「毎日来なくていいよ。」って言っていたけど、来てくれる時間になると、車が見える所で待っていました。5分でも10分でも、何気ない話を、普通にしてくれることで、気持ちが落ちつき穏やかになれました。自分の病気がどうなるのか知りたくて、インターネットで調べたら、私のような状態では、術後5年の生存率のあまりの低さを知り、怖くて、不安な気持ちを泣いて和昭さんにぶつけた時、「データーはそうであっても淳子は死なない。そんなことは、絶対無い。あるわけないやろう、治る為に治療してるんだから。大丈夫。」和昭さんは、そう言ってくれました。データーに間違いはなくそれが現実なのだとはわかっています。でも和昭さんがそう言ってくれるのなら、データーとは、違う状況になるかもしれないと、少しだけ前向きになれるような気がします。こうやって振り返ると、いつもいつも和昭さんの言葉に励まされ、和昭さんの優しさに支えられて今の私が生きています。病気になった私よりも、傍でずっと見ていてくれている和昭さんの方が辛いことは、立場を逆にして考えればわかります。逆だったら私は耐えられなかったかもしれない。和昭さんありがとう。本当にありがとう。神様が私にあとどのくらいの寿命をくださるかは、わかりませんが、許される限り、和昭さんのそばで、毎日を、大切に生きていきたいと思います。

 ありがとうの気持ちを、手紙という形で、表わすよい機会を与えてもらいました。同じ文章をパソコンにも打ちこみました。いつか、主人が見てくれたらいいなって思っています。800字にまとめきれなかったことを申し訳なく思っています。
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清田 進さん(46歳/福岡市博多区)からの手紙
お母さん
天国のお母さん

 前略。美しく新しいお母さん。幸子さん。あなたは27歳の若さで小学校3年生のぼくと弟とお父さん、男だけ3人の家へやってきてくれましたよね。

 その日からというもの、それまでぼくらの暮らしにはなかった沢山の新しい事が始まりました。家族揃っていただきますを唱えて食事を始める事やお休み前の読書の習慣。ベッドの上に弟とお母さんと3人より添って本を読みましたよね。鏡台でパックをするお母さんを初めて見た時には、女の人はへんな事をするな、と弟と2人驚きました。

 そんな新しく始まった沢山の事のなかで一番の楽しみは月に一度の本屋さんでの買い物でした。本を選んだあとは、お好み焼きを食べにいったり、フルーツパーラーによったり。時にはハンバーグステーキを食べて贅沢な気分を味わいました。

 ぼくが欲しくてしょうがなかったミニカーをお父さんに随分しつこくねだったのですが買ってもらえなくておもちゃ屋さんからついもって来てしまった夜。お母さんは風邪をひいてベッドで休んでいましたよね。覚えていますか。ぼくは枕元に呼ばれてしこたま叱られるかと思いましたが、「明日一緒にミニカーを返しに行こうね」とお母さんは一言だけいってくれました。あの時お母さんの頬を涙がひと粒つたって流れました。ぼくはあのお母さんの涙を忘れられません。

 6年生の初夏の朝、ぼくは弟と2人、職員室に呼び出されました。「しっかりして聞きなさい。お母さんがだめなの。今から一緒に病院に行くからね。しっかりするのよ」と先生がいいました。

 光がさして輝き、風がそよいでゆれている菜の花畑の菜の花のような気分でぼくらが幸せにひたっている間に、光であり爽やかな風だったお母さんがいつの間にか病に犯され一人旅立つなんて考えもしない事でした。

 今となってはどんなに声を大きくしても届かない「ありがとう」ですが、お母さん。ぼくはお母さんと過ごした3年間が他のどの時期よりも今のぼくを映す原点に違いない事に感謝しています。ありがとうお母さん。
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ペンネーム:まいまいこっこさん(46歳/福岡県大野城市)からの手紙
「天神の街」
 結婚して家事、子育てに追われ近所にパートへ行ったりあわただしい日々を送っております。縁あって15年ぶりに天神で仕事をすることになりました。バスと電車で約40分、新天町を通って職場へ行きます。思えば高校を卒業して初めて就職した所も天神でした。結婚後も時々来ておりましたが、最近天神を歩いていると何かなつかしく思います。よく岩田屋の前で友達と待ち合わせしたなぁ。地下街、新天町、親富孝通り等、私の青春時代の思い出がたくさん残っています。あちこちに思い出の写真を見ているように感じます。もちろん新しいビルが建ち並び消え去った店もたくさんありますが仕事帰り歩いていると時々昔の自分とすれ違う気がします。私の青春時代を大切にしまってくれてありがとう。まだ何もわからなかった私が社会に出て、いい事も悪い事もいろいろあったけれど仲間と飲んで食べて語り合って、よし明日からまたがんばろうと何度思ったことか私はこの街でたくさん成長させてもらいました。あれからずい分年を取り、通勤電車を降りていっせいに鳴りひびく足音にはついて行けませんが、またこの街からパワーをいただいております。大好きな天神、いつもありがとう、またこれからヨロシク…。
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ペンネーム:おかんさん(47歳/長崎県川棚町)からの手紙
娘へ
 「おかあさんは、大きくなったら何になりたい。」幼稚園の頃のあなたの問い掛けに、「おかあさんになりたかったよ。」と答えると、不思議そうに首を傾けていたのは、ついこの間の事でした。誕生日には、おめでとうの言葉と肩叩き券と似顔絵のプレゼント、絵の中のおかあさんはいつも笑顔でした。いまでも、おかあさんの宝物です。お友達もたくさん出来ました。あなたが生まれてきてくれたおかげ様です。小学生の頃、自分の名前の由来についての宿題、「誰からも愛される様に、誰をも愛せる様にと願いを込めた名前だよ。」「うん。」と、あなたは、にっこりほほえんだね。15歳、進路選択の時、現実を見つめ、将来の夢を真剣に話し合えました。成長の時々に、無条件に「おかあさん」と呼んでくれる、あなた、おかあさんという五文字の重みを感じていました。おかあさんは、あなたの成長についてゆけているでしょうか。夢の実現に向けて頑張っているあなたがとてもステキに見えます。今、旅立つあなたへ贈る言葉は、今を大事に生きる事、結果は、後からついてくる物だから、いつの時も、「ありがとう」と感謝の出来る人でいて下さい。今、「おかあさんの夢って何。」と問われたら「あなたの夢が叶う事。」と笑顔で答えたい。喜びも悲しみも、感動もあなたと一緒に、体験できた事をとても幸福(しあわせ)に思います。あなたが、いてくれたおかげ様で、どんな時も、笑って過ごせました。強くいられました。

 もっと、もっと、言えば切りがないけれど、夢がもてる事は、とても幸福(しあわせ)な事だと思います。「ありがとう。」そして、「これからも、宜しく!!」
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水江 良子さん(48歳/福岡県直方市)からの手紙
夫 水江泰造
ありがとう…夫、たいぞんびへ

 私たちが出会って長い年月がたちましたね。

大学生の時は、遠距離恋愛。私たちのずっと後に「シンデレラエクスプレス」という言葉が流行ったけれど、私たちはそのはしり?だったよね。京都駅のホームで新幹線の後ろの赤い光を見るたびに何度泣いて見送ったことでしょう。三島駅では、新幹線の扉が閉まるたびに涙が出て、名古屋駅まで席に戻れませんでした。きゃー!純情だったね〜。

 つきあい始めて8年目の23歳で結婚した時、もう離ればなれにならなくていいって、本当にうれしかったです。来年の3月7日、銀婚式を迎えようとしていますよ。来年といっても、あと3ヵ月もないよ。早いね。

 子どもたちは2人とも成人し、あなたに似てすてきに育ってくれました。あなたのおかげだと心から思います。あなたは、いつも、私のわがままを優しく温かく受け止めてくれました。でも、一番のわがまま…今年が始まったばかりの1月の終わり。突然の入院。出張先に電話をかけ涙で病気のことを伝えたね。「心配しなくていいぞ。」の声に励まされました。2週間の入院で帰れると思っていたら、肝臓腫瘍がみつかってしまい、二人でびっくりしましたね。学校も病休ということになりクラスの子どもたちにも心配をかけてしまいました。良性か、悪性かが分からず違う病院で生検をすることになった時、私は覚悟を決めました。ここまで生きてこられて子どもたちも大学生。あなたに看取ってもらえるなら…と心からそう思っていました。違う病院の見解も、同じだったね。3月9日に入院して、生検することが決まり、入院先の病院へと帰る時「お好み焼きが食べたい。」と言った私につきあい、二人でお好み焼きを食べながら、「おまえ、本当に強いね。」と言いましたね。「しょうがないやん、運命だと思う。たいぞんび(夫をそう呼んでます)よりも早く死んだ方がいい。看取られるならいい。萌衣(めい)と圭太もきちんと育ったし。」「孫、見て死なんといけんのやないか。」「ううん。いい。私はもういい。」と言った時、あなたはポツリととっても小さな声で「俺が困る…。」と言いましたね。私は、聞こえないふりをしてふっと笑ったけれど、本当は涙がいっぱいになってあふれ出そうだったんだよ。私が強いのは、あなたがそばについているからだよ。

 生検をしたけれど、原因は分からず、良性みたいということで経過観察をすることになりましたね。4月1日には、職場復帰をして家族みんなで喜びましたね。1学期が終わってすぐ病院へ行くと、腫瘍が大きくなっていることが分かり、また、精密検査入院をすることになってしまいました。私は、自分のことよりも、またあなたに迷惑をかけてしまうことが本当に嫌でした。1ヵ月2週間の精密検査をしたけれど、良性か悪性かがはっきりせずしかも、腫瘍の場所がとても悪くなかなか治療ができないということ。学校も、良性か悪性かが分からないということで、病休にはならず、休職になってしまいましたね。また、経過観察になり、退院。12月25日からの職場復帰を楽しみにしていた矢先、腫瘍が大きくなっているという主治医からの電話。また新年が明けてすぐの入院が決まってしまいました。休職なので、給料は少なく、ボーナスはほとんどありませんでしたね。働いていないのだから当たり前だと思ったけれど、あなたは一言、「働かんで給料、少しでももらえるならいいと思わんか。金のことは心配するな。」と言ってくれましたね。今回の入院は、治療です。とっても怖いです。長引くかもしれません。銀婚式、できるかな〜と心配です。でも、いつも優しいあなたがついてくれるから、がんばれます。そして、一番言いたいこと、いつも迷惑かけてごめんね。そして、心からありがとう!
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山田 和彦さん(49歳/福岡県小郡市)からの手紙
配達された一枚のハガキ

 子供宛の一枚のハガキが配達された。1年半前に転居し、郵便局への転送の期間も過ぎ、本来であれば配達されるはずのない、ハガキだった。

 子供の友人からの「児童劇」への案内状だった。小学校1年生の、えんぴつ書きのハガキだった。

 郵便局の仕分け担当者の配慮だろうが、文面でなく、宛名の意味を見られて配達の区分(くわけ)に入れていただいたのだろう。

 「児童劇」当日、ほぼ1年ぶりの再会を、二人ともよろこんでいた。配達されなければ味わうことのできない感動だった。

 50円のハガキ一枚で感受性の強い子供にとっては、本当にありがたい事だった。

 早速「児童劇」の感想を書き、一枚のハガキを相手に送っていたようだ。中身は知らないが、子供にとっては音信の再開をとても、よろこんでいた。

 郵便局員さん、ありがとう。あなたのおかげで、子供たちの友情が生まれました。

 一生懸命に書いたハガキを配達してくれてありがとう。メールなどでなく、味のある一枚のハガキの価値は、なに物にも代える事ができない。

 昨今の子供たちはゲームなどにのめり込んで、文章を書く事をはぶいてしまう傾向にある。子供は、今おぼえたての漢字やイラストを、まじえて彼女自身の思いを一枚のハガキに、おりこんだろうと思う。

 一人の郵便局員さんの心暖まるサービスが、無限の可能性を持った子供達の心を、動かしてくれた。

  いろんな事で注目されている郵便局員さんたちの、本当に心あふれる心づかいに感謝しています。一枚のハガキの音信によって生れた友情を、作ってくれて「ありがとうございます。」
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